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模擬原爆とミス愛知(その1) [八月が来るたびに]

 真夏が、八月が近づくにつれ、東海地方のローカルニュースでも先の大戦を振り返る催しやイベントを報じるようになりました。 そのうち、特に興味深かった二つの展示会に行ってみました。

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 一つ目は、豊田市の産業文化センターで開催された、「豊田市平和を願う戦争展」です。 連動企画として、8月6日に豊田市福祉センターで劇場版の上映が企画されているとのこと。 豊田市教育委員会がバックについているので、大人1000円で鑑賞できるそうです。 うーん、京都行ってるワ、その日。

 さて、今回の展示の目的は、劇場版のパンフレットをもらうことではなく、終戦間際… 20年8月14日の午後に豊田市に投下された、”模擬原爆”=パンプキン爆弾を見に行くことです。

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 この爆弾は、豊田市(当時挙母町)にあるトヨタ自動車本社工場を狙って投下されたものだと言われています。 1発目が現トヨタ会館の南側(当時のトヨタさんの社宅があった所)、2発目が渡合町(現在の豊田ジャンクションから新東名に向かう途中の大きな橋の近く)の集落、そして3発目がトヨタ自動車の本社工場内に落ちました。 トヨタさんでは、午前中に戦闘機の襲撃があり、社員が皆避難していたため、犠牲者はいなかったとのこと。

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 こちらが2発目の破片。 民家の壁に突き刺さっていたものを、その民家の所有者が保管されていたもの。 触らせていただきました。 厚みが2インチくらいある鉄片です。 パンプキン爆弾は、長崎に投下された”ファットマン”と外形・重量が同じで、原爆投下時の航跡を調査するための”模擬原爆”として、国内の数カ所で投下されていました。 終戦直前の投下(米軍は、この日までに日本の降伏を把握)は、パンプキンの通常兵器としての性能を確認するためだったとも言われています。

 丁寧に説明していただいた豊田市の冨田さんによれば、当時の(B-29の空襲拠点となった)テニアン基地には原爆が無くなっていたので、アメリカ本土まで3発目・4発目を取りに行っていた最中だったとのこと。 もし戦争が長引いていれば、豊田市にも原爆が投下されていたかもしれないとのことです。

 確かに。 たとえば、呉工廠の空襲の際は兵器廠は爆撃しましたが、戦後活用できそうな造船ドック(大和のドック)は、そのまま手付かずで残していました。 じゃあ、日本の自動車工場は? 当時、日本に自動車工業が根付くとは(豊田 LEADERS 喜一郎さん以外)誰も思っておらず、アメリカにしてみれば全く利用価値のない工場でした。 本当に、豊田市が第3、あるいは第4の被爆地になっていたのかもしれません。

 皮肉なことに朝鮮戦争時には、アメリカは このトヨタ本社工場で生産されたトラックを最も多く購入して、戦後のトヨタさんの財政状況健全化に大貢献するのです。 戦後、ドッジ不況と労働争議により倒産寸前まで追い込まれていたトヨタですが、人員整理と経営陣の退陣を条件とした日銀の支援により倒産をかろうじて免れます。 その直後の25年6月25日に勃発した朝鮮戦争により情勢は一変。 日本を後方支援基地としたアメリカ軍のトラック大量注文により、一気に息を吹き返すのです。(この辺はTBSのドラマ「LEADERS」で詳しく説明されていますね。) 当初、アメリカの注文はディーゼルエンジン車を得意とする いすゞや日野が獲得するのではないかと言われていましたが、蓋を開けてみると 米軍は補給上の都合からガソリンエンジン搭載のトラックを希望。 偶然、ガソリンエンジンのトラックだけ造っていたトヨタさん(しかも大規模生産ラインが空いている←売れてなかったから)に白羽の矢が立つのです。 

 9月、当初500台の予定だった米軍特需は1000台に拡大、そのすべてをトヨタが総取りします。 10月末時点での特需は、トヨタ 3329台、日産 2915台、いすゞ 815台となりました。(以上 東洋経済新報より抜粋) まさに、アメリカ軍がトヨタ本社を完全に破壊しなかったことで、トヨタは米軍に救われるのです。

 その他、豊田市内にあった飛行場のこと、軍事施設のこと、それらの整備に動員されていた朝鮮人労働者のこと、機銃掃射で亡くなった少女のこと… 私よりも お年を召した皆さんが手作りされた資料が多く展示されていました。 ここにも努力して語りを繋いでいこうとする方が多くいらっしゃいました。 9条死守のコーナーもあって、少し


   平和を願う  >>>>>  |  こっち側 >>>  絶対反戦        


かな?

アクションの特別再録はいつまで? [番外]

 当初 3回といわれていた、アクションの特別再録。 ”好評につき延長します”の連続で、現在発売中のH29年7月18日号で第16回(リンに絵を届ける回)まで来ました。 次号(7月18日発売のH29年8月1日号)の掲載も決まっているので、第17回(小林の伯母さんたちが荷物疎開の回)まではやりますが、いったい いつまでやるのでしょうか?

 参考になるのが、中国新聞の有料増刊といえる、「中国新聞SELECT」の”連載”。 こちらでは、原作を毎週土曜日の号に第18回まで連載することが予告されています。 第18回は、竹槍訓練の回。 すずが、リンと周作の関係に気がついてしまう回ですね。 これから、ストーリー的にも戦局的にも佳境に入っていく、一番おいしい時で掲載を終えて、あとはコミックスを買ってね、ということでしょうか。 まあ、双葉社さん、また新装版の時の過ちを繰り返していて、今、コミックスが大量に書店に溢れていますもんね… (第19回には、朝刊には載せにくい例のシーンもあるし)

 アクションのほうでも、8月1日発売のH29年8月15日号で第18回掲載の予定ですが、ちょうど7月28日の公式ファンブックの発売まで引っ張れて、ここら辺がちょうどいい潮目なのかな。 いや、ひょとしたら来年のアカデミー賞くらいまでやるかも...

 アクション今号では、高橋留美子さんの応援漫画が掲載されていましたが、のんさんをスゴイ褒めていたのが印象的でした。


(H29年9月15日追記)

 現在、9月19日号に「第20回 19年11月」が再録され、次号も再録と告知されています。 本当に最終回までやってしまうのか? ところで、再録がこのまま続くと、いいことが一つあります。 コミックスの加筆箇所が読み比べで判るのです。 「第11回 19年7月」の再録では、呉初空襲警報の日付けが古いままでした。(そうだったよね、確か…) つまり、H19年掲載時の原稿が修正なしでそのまま再録されているのです。 コミックスで加筆されているとされているのが、一月後に掲載予定の「第22回」、そして「第31回」「第34回(これは街が燃えるシーン?)」「第39回」です。 これは、わざわざ国立国会図書館とかに行かなくても調べられるので、便利っちゃあ、便利ですね。


(H29年10月16日追記)

 H29年10月17日号に再録の「第22回 (19年12月)」。 あれ、コミックスと同じだ! じゃあ、今再録されているのはコミックス用の原稿ということ?? 

20年6月22日 [下巻]

片渕さんの今日のTwitterが怖い。 怖い。 怖い。


こうのさんが本作の連載を、平成18年暮れから21年1月にかけて行ったことと同じことを、ある1日に絞って、twitter上で再現されたのですね。 そういえば、劇場版公開後、はじめて この(作中の年月が特定できる)日を迎えたんですもんね。

この後、7月1日深夜、7月24日から5日間、8月6日、15日、9月17日(枕崎台風は劇場版でやってないからないか)などに何かありますかね。 


(H29年9月18日追記)

H29年9月17日に鹿児島県に上陸した台風18号。 当初は枕崎台風そっくりの進路を通ると予測されており、「これも片渕監督の仕込みか?」と、twitter上で話題になっていました。 この偶然に片渕監督も急遽コメントを掲載され、枕崎台風の情報や、劇場版ラスト近くで、夜、少女の周りで燃えていた鬼火が9月17日以降は見られなくなったことなどを説明されていました。 

「マイマイ新子」と200万人おめでとう! [番外]

 劇場版、累計入場者数200万人突破おめでとうございます。 6月22日かなと思ってましたが。 でも、リピーターが多いので、実際に見られた方は100万人ちょっとくらいでしょうか? この作品は定期的にリピート上映されるだろう性格の映画なので、最終的に何人来場者があったかは、何年・何十年と経たないと分からないのでしょうね。

 さて、私は今「ぼおるぺん古事記」を買って来て、少しずつ読んでいます。 また、先日、「マイマイ新子と千年の魔法」のDVDをようやく見ました。 面白い、そしてとても懐かしい作品ですね。 冒頭から、見慣れた防府の山におぉーっ! 登場人物の山口弁は、最初は少し違和感がありましたが、中盤以降はしっくりきました。 これは演者の皆さんが慣れて来たからか、私の耳が慣れたからか? この辺のところは「この世界の片隅に」では、より演者さんたちの広島弁指導が徹底されているなぁとあらためて感じました。 最後に貴伊子が新子を見送るところで山口弁になっているところは、すずさんが最後に呉人のイントネーションになっているのに通じるところがありますね。

 新子はお父さんの勤め先(山口大学)のある町に引っ越していきますが、お父さんが緑藻の研究をしているということで、文理学部(当時はまだ人文と理学部は別れてない)ならば山口市の白石地区、農学部ならば下関の調布ですね。 

 それから、防府には清少納言が居たんですねぇ。 あんまり意識したことなかったな。 でも、なぜか「枕草子」(と「古事記」)は山口県立図書館で対訳付きの本を借りて原文を読んだんだよな、高校時代。 私は昔から紫式部よりも清少納言派だったんだけども、清原元輔が周防守だったのが影響していたのか?

 両作品は、戦後と戦中、小学生と主婦という違いはあるけれども、”生のきらめき”というのが共通していますね。 「マイマイ新子」、大きいスクリーンで見てみたい作品です。

結びに代えて [はじめに]

 昨年の11月に初めて劇場版を見てからというもの、私の睡眠時間は減ってしまった。 四六時中この作品のことを、そして、その背景となる時代や地方のことについて いろいろと考え、そして調べなくてはいけないという衝動に駆られた。 その衝動は、原作のコミックスを読んだ後、さらに加速した。 とにかく、作中に作者があえて描かなかったことを何とか理解しようと考え、調べ、そしてまた考えた。 年表を整理し、仮説を組み立て、そしてその仮説の傍証をいろいろなメディアから探して回った。 そして1話1話、気に留めたことを書いて行った。 そうこうするうちに、あっという間に半年が過ぎていた。

 こんな作品は初めてだ。 たぶん、二度とこのような作品には出会わないだろう。 とりあえず、全話分の感想を書き留めることが出来た。 これでようやく落ち着いて夜眠ることが、出来るかな? この作品については、これまであまたの人が評論や感想を書いているので、自分は一番強く感じたことと、最後に気付いたことを書いて、とりあえずのまとめにしたいと思う。 


全編これ戦闘シーン

 この作品に対する一般的な評論として、「日常の中に戦争が忍び寄ってくる様を描いている」とか、「過酷な状況の中でも日々を大切に生きていく事の尊さを描いている」などのようなことを書いているのをよく見かける。 とにかく”日常”、”日常”と繰り返し言われているが、私は、この作品は全巻・全頁に渡って熾烈な戦いが描かれていると思う。

 ”戦い”といっても、私のような単純な男子、つまりはプラモの戦闘機を手に持って空中戦をやったり、池に浮かべた空母を爆竹で爆破したり、同級生に「特攻じゃぁー!!」と言って体当たりしていた、本当に馬鹿で単純な少年のなれの果てが想像するような戦いではない。 銃剣の代わりに包丁を、砲弾の代わりに薪を持っていた女たちの戦いなのだ。 

 彼女たちはインパールへの苛烈な山道を進む代わりに 炎天下の配給の列に並び、ジャングルを匍匐前進する代わりに 道端に這いつくばって食える草を探し回り、そして、砲弾の雨が降る塹壕の中で家族の手紙を握りしめながら故郷へ思いを巡らす代わりに 木の実の落ちるお背戸の向こうで栗の実を煮ながら 父さんの帰りを待つのだ。 そんな静かな女たちの激しい戦いが描かれているのだ。 そして、女たちの目的は鬼畜米英を倒すことでも、大東亜共栄圏の繁栄でもない。 ただただ、愛しい人を、愛おしい日々を再び取り戻すために戦っているのだ。 大戦中、女たちは ただ耐えていたのではなかった。 自らも傷つきながらも、必死で静かに生き延びるために戦っていたのだ。 この作品は、私にそんな当たり前のことを気付かせてくれたのだ。


ぼろぼろの題字に込められた願い

 ちょっと気づきにくいが、この作品のタイトルロゴと作者名はかすれている。 長い年月にさらされて朽ちていく様を表現しているのだろうか? そういえば劇場版のポスターのタイトルロゴも、製作準備段階の初期のものは字体がはっきりしているが、公開版のものは原作のようにかすれている。 これは、この時代を懸命に生きた人々の生の記憶も、誰かがバトンを継いで語り継いでいかなければ、いつか途絶えてしまうということを言いたいのだろうか?

 先ごろ(H29年5月19日)、岡ヨシエさんが亡くなられた。 岡(旧姓大倉)さんは、比治山高等女学校3年生の時(中学3年相当で当時14歳)に、挺身隊として広島城本丸にあった中国軍管区司令部に配属され、そして原爆に遭われた。 投下時、地下壕の通信室に居た岡さんは広島の惨状を確認すると、すぐさま福山の部隊に「広島が全滅です」という一報を入れた。 これが広島の原爆投下を伝えた第一報であると言われている。 岡さんは、屋外にいた旧友の救助に当たったが多くが直撃で即死しており、息のある者も重傷の火傷を負って虫の息であったという。 この救助活動時に岡さん自身も被爆され、長く原爆症に苦しめられたそうだが、約30年前より語り部として自身の体験や、重い火傷を負いながらも「仕事に行かせて下さい」と懇願しながら死んでいった誇り高い旧友のことを多くの人に語られたという。 

 いま、岡さんのような戦災の語り部の方の高齢化が進み、その数はどんどん少なくなっていっているという。 そういえば、径子役の尾身美詞さんが「その頬 熱線に焼かれ」という舞台の準備で元”原爆乙女”の方たちと会われたときにも、「自分たちの命には限りがある、自分たちが生きているうちに(その劇を)早くやって」と懇願されたという。 この作品のかすれた題字には、誰かが語り継がないと この時代を生きた人々の貴重な記憶が本当に無くなってしまうというメッセージを込めているのかもしれない。 劇場版のタイトルもかすれているが、色だけはみずみずしい菫色になっている。 これは映画という形にしたことで、しばらくは後世に伝えるための余力を与えましたよという意味が込められているのかな?

 このかすれた題字の意味を悶々と考えている時に、H29年5月に愛知県で開催された「花森安治の仕事」巡回展に行き、先に説明した「暮らしの手帖 96号」、戦争体験特集号の序文にあたる「この日の後に生まれてくる人に」という文章に出合った。 ああ、そうか! この文章に書いてあることこそ、かすれて”ぼろぼろ”になった題字の意味であり、作者から ”この世界のあちこちのわたし” たちに託された、祈りにも似た願いなんだなぁと、一人で納得したのである。 

 

 最後に、その「この日の後に生まれてくる人に」の一部を引用させていただき、このつたないブログの当面の締めくくりとさせていただきたい。


 ”いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。 君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。

 しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。 それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。

 できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。 これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである。”


(了)

”祝 全国放送決定!!” 広島からの手紙 [番外]

広島の先輩から郵便が届きました。

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ブルーレイ! H29年6月2日に中国地方ローカルで放送された、「”この世界の片隅に” コトリンゴの映画音楽」をお願いして録ってもらったやつです。

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あ、日曜に放送された45分の”完全版”も入ってる! 先輩ありがとう。


30分版には、広島の流川教会で行われた演奏会の様子や、「悲しくてやりきれない」、「New day」、そして「みぎてのうた」のフルコーラスが収録されています。 「ありこさん」は左手でピアノ、右手でマリンバを同時に操って器用に演奏されていました。 この人、ほんとうにすごい! いや、あの「しあはせの手紙」を劇場版の主題歌 「みぎてのうた」に直された時点で只者ではないと思ってたんですが。

そして”完全版”は、あらゆる意味で”完全版”でした。 (「たんぽぽ」フルコーラス収録。)

本当に、昨年の11月から「みぎてのうた」が頭の中でリフレインしっぱなしです。 「たんぽぽ」もいい歌。 子供が巣立つときに贈ってやろうかと思ってるくらいです。 


(H29年7月19日追記)

完全版の全国放送が決定したそうです。 8月15日(火)深夜1:00~ (16日午前1時~) NHK総合で放送です!

下巻に関する年表 [下巻]

作品世界に関する年表。


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作者の著作に関する年表。


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※クリックすると大きくなります。

最終回 しあはせの手紙(21年1月) [下巻]

「最終回 しあはせの手紙(21年1月)」 掲載’09年(H21年)2月3日号 (発売日 同年 1月20日ころ)

なぜ”幸せ”じゃない?

 ついに来た感動の最終回…のはずが、みぎてに乗っ取られるという前代未聞の始まり方。 今回も4ページ増の12ページ。 ”しあはせ”はもちろん、”しあわせ”の旧仮名遣いだが、この作者はナゼ、「幸せ」という字を使わないのだろうか? 広島ではこの漢字 教えてないのか?

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 これは、この作品までの作者の”SHIAWASE”の表記をまとめたもの。 (「ぴっぴら帳」は未読、「こっこさん」には未登場、径子のは正確には前に”不”が付きます。) 作中、「幸せ」の表記が出てくるのは、「街角花だより」で花言葉の引用と宣伝文句の中、そして「長い道」で竹林が手紙に書いているのだけだ。 概して、生の人間の話し言葉では「幸せ」は使われていない。 または、絵に描いたような(もしくは絵空事の)Happyな状態だけ漢字を使っているのか?(竹林は重要登場人物だが、あくまで一般人で、一般的な”幸せ”な生活を送っているからとも言えるかな)

 「しあわせ」の元々の意味は”めぐり合わせの良いさま”をいい、一方で「幸」の字は囚人の手かせを表したもので、囚人が解放された様子から”おもいがけない運に恵まれたこと”、つまり今の人が言う ”Lucky”の意が強い。 作者が作中に”しあわせ”という言葉を使う場合には前者の意味合いが強く、「幸」の字はふさわしくないと感じているのかもしれない。

 なお、作者は”漫画”、”マンガ”、”まんが”という言葉を使い分けておられるそうだが、”しあわせ”と”シアワセ”も意味を区別して使われているのかもしれない。 パッと見、戦前生まれの人が平仮名のほうを使っておられますが。(道はまだ”しあわせ”というものがよくわかってないから記号的にカタカナを使っているのかな?) 

真冬なのに なまあたゝかいのはナゼ?

 これは不幸の手紙ではないというみぎてだが、その理由が支離滅裂。 さすが脳みそがないだけある。 ”なまあたゝかい風”といきなり怪談を匂わせて、自分が死者の使いだということを暗示しているようにも思える。 怪談噺は置いといて、風がなまあたたかいとは どういう状態か? 暖冬?というよりも、街中のあちこちで死体や瓦礫を焼いていて、その熱風が漂ってくるということか?? 

この家族は?

 そしてまた、唐突に現れる母娘。 すでに遺影のお父さんは、陸軍の士官か? 詰襟で肩章がある5年制式の軍服(5年度から12年度まで)を着ているようなので、写真が12年くらいのものとすると、少女は今 8歳か9歳くらい? 晴美の一つ上? お父さんの階級章に星が二つ以上見えるので中尉以上? 若そうだけど士官学校卒のエリートだったんですね。(下級兵士なら軍曹以上) 待てよ、遺影が8~9年前くらいのものだから、亡くなった時は大尉くらいにはなってるか。 結構、恩給も貰ってるのだろう。 粥じゃなくて、ご飯食べてるし、高級品の海苔もあるし。 いや、この海苔は実家の江波から送ってもらったもので… ああ、やっぱり このお母さんが すずさんの本体なのか?! 

母からの最期の施し

 そういう複雑な”もしもの裏設定”(または妄想)の話しは置いといて、母親が自分の海苔をあげようと躰を娘の側にあずけたことによって、少女は爆風から守られることになる。 自分がひもじくても子に施しをする無償の母の愛が少女の命を守る。 そして、致命傷を負いながらも最後の力を振り絞って娘を安全なところに避難させ こと切れる。

 まさに、母からの最期の施し。

読者に叩きつけられる残酷な死

 そして、この漫画には直接的な死の描写は無いと安心しきっていた読者に叩きつけられる、これ以上ない残酷な死の描写。 まさに痛恨の一撃だ。 唯一の救いは、その朽ちて逝く人が馴染みのある登場人物ではないことだ。 このお母さんは、死の描写を入れるためだけに登場したキャラクターではない。 この大戦で理なく命を奪われたすべての人々の象徴なのだと思いたい。

作者の怒りの正体

 私は、このエピローグ連作で作者は怒りを抱えているのではないかと思っていたが、その怒りの理由がわかったような気がする。 作者が怒りを覚えていたのは、自分自身だったのだ。 この時代の作品を描くのに、直接的な死を描かないことへの違和感。 きれいごとで済ますことへの罪悪感。 いかに ばけものや座敷童子が出てくる漫画の中とはいえ、直接的な死を描かずに終わらせてもいいのかという葛藤。 ちゃんとした”死”を描くことで、この作品も終わりを迎えられるのだ。

しあわせの時間

 ”いま此れを讀んだ貴方は死にます”と、やはり不幸の手紙を装いながらも見せるのは、みんなのしあわせなひと時。 伯母さんと縁側談義をするおかあさん、久夫の教科書を見入る径子、そして、ここからなぜか時間は遡りはじめ、夜勤明けから帰ってくるおとうさん、(すずが朝餉の支度をする間も)眠る周作、回覧板を届ける在りし日の晴美、そして、呉の生活にも慣れて懸命に働くすず。 戦中でありながらも、日々の中のしあわせな瞬間瞬間が切り取られる。

また竹林

 ここで、幸せなひと時の舞台として”竹林”が出てくることに注目。 ”竹林の七賢”の例えがあるように、静かに物思いにふける場所とのイメージがある竹林は、第18回で すずが周作とリンの関係に気付く場所として選ばれていた。 「こっこさん」や「長い道」にも重要なキーワードとして出てくる”竹林”は、作者にとって どんな位置づけなのだろうか? 花言葉から見てみると、「節度」や「節操のある」というのがあるが… 

みぎてから私たちへ

 なぜか自分の意志を持ち始めたみぎてによって綴られる”しあはせの手紙”。 ああ、そうか、これはこの時代の人々から私たちへ向けられた手紙だったのだ。 自分の意志に関係なく、志半ばで生きることをやめさせられた この時代の人々から、当たり前のように”自由”と”平和”を満喫しながら、日々を怠惰に生きる私たちに。  

絆をつなぐ広島海苔

 広島駅前で汽車を待ちながら、(きっとおばあちゃんが握ってくれた)俵型のおむすびを食べている夫婦。 そのおむすびを落としちゃうのはいかにも すずらしい(右手が不自由なこともあるけど)。 しかし、そのおむすびが少女と すずをめぐり合わせる。 すずの右手がないことに気付き、母の記憶と結び付け、今拾った獲物を右手の無いその人に差し出す。 野性児だった少女が人間に戻る瞬間。 無いはずの右手が二人を結びつける。 

 ”過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせん”、”人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる” 中巻で周作とリンが言った印象的なセリフ。 しかし、ここでもすずは これらの言霊の呪縛を断ち切る。 無くなったものでも、新しい絆を生み出すことが出来るという、すずとみぎてからのメッセージだ。 

 そして、ここでもまた広島の海苔が”めぐり合わせ”を演出する。 かつて、すずと周作を引き合わせ、少女を爆風から守り、そしてすずと少女を結びつける。 例の映画の”現役女子高生の唾液からつくられるお酒”みたいに、広島海苔はもっとブレイクしてもいいと思うんだけどな。

「よう広島で生きとってくれんさったね」

 すずの無いはずの右手に抱きつく少女。 二人の腕のアップで発せられるこのセリフは、もちろん すずの言葉ではあるが、同時に作者から祖母の世代への言葉でもあり、読者から広島の人へ送られる言葉でもある。 そして、この時代から9年半後に、皆実の心を救う打越の言葉でもある。 

「ほうよ ここが呉↑」

 呉の人は「くれ↑」と言うときに、”れ”にアクセントを付けるという。 ”クレラップ”のイントネーションだ。(ちなみに私は、クレラップのクレハ化学が呉市と無関係ということを、つい最近知りました。) 劇場版の前半では、すずが広島人のイントネーションだったのが、このシーンでは見事に呉人のイントネーションとなっており、名実ともに呉の人となったことが印象付けられている。 これは片渕監督のこだわりの演技指導だそうだが、この微妙な変化を広島県人は気付いているそうだ。 少なくとも、某自動車会社のとある部署では、この話題で盛り上がったそうだ。

三角兵舎

 中通りを通って長ノ木へ向かう途中に見かける三角兵舎。 これは、7月1・2日の呉市街地空襲で焼け出された市民のために、軍がわずか1週間で2000戸建てたものだ。 

巻末に置かれた意味

 灰ヶ峰に向かって歩みを進める3人。 歪んでいた世界が、鮮やかな色彩とともに元に戻る。 この作品を通して最大のクライマックスとなる感動のシーン。 中綴じ週刊誌の巻頭カラーページの対となる巻末の上質紙のページを与えられていながら、ずっとモノクロで通してきた本作が満を持して送るカラーページ。 この瞬間のために2年間、溜めに溜めたからこそ得られる感動。 まさに編集部との信頼関係があってこそ成立した奇跡の連載だ! 

そしてラストシーン

 照れているのかと思えば、実は少女の持ってきたシラミと蚤で痒かったのだというオチ。 的確な指示を出す おとうさんと おかあさん。 パシリの本性がにじむ周作と遠慮がちなヨメ。 DDTの解説役の小林夫妻。 そして、愛娘の形見を惜しげもなく差し出そうとする径子。 本当に、それぞれの人物の性格がよく出たラストシーン。 そしてまた、自分がもう作品世界に干渉できないことを語る みぎて。 

世界の歪みは解消されたよね?

 ところで、これで世界の歪みは解消されたのだろうか? ラストカット、なんか周囲の柱や障子が微妙に歪んでいるようにも思えるが。 大丈夫! 第12回のところでも言ったが、作者はフリーハンドで描いているので、線画で描くときは結構歪んでいます。 ちゃんと右手で描いているはずです。

 もっとも、これが左手で描いてあったとしても、それはそれで良いのではないか。 左手で描かれ続けられていくうちに、次第に右手で描くのと同じクォリティになるのだということでも。 人の心はどんなに傷付いても、時とともに癒されていくのだ。

ハッピーでもエンドでもない

 これで、この奇跡の連載は終焉を迎えるが、それはけっしてハッピーエンドではない。 ハッピーでも、エンドでもないのだ。 すみや知多さんの原爆症がどうなるのか? 森田のおじちゃんや知多さんの家族は帰ってくるのか? 作中では全く語られない。 すみの容体が急変するかもしれないし、一生 辛い闘病生活を送るかもしれない。 森田のおじちゃんは極寒のシベリアで強制労働をさせられていて、故郷に帰る日を夢見ながら凍死していくのかもしれない。

 日本にいる人々にだって安寧な時はなかなかやっては来ない。 戦後の食糧難と不況は延々と続くのだ。 農村の食糧生産力は回復していないのに、戦地や元植民地から続々と人々が帰還してくるのだ。 街は失業者で溢れ(なにしろ最大の雇用先の軍隊や軍需工場が無くなったのだから)、限りのある食料を奪いあう。 食料配給制度は戦後しばらく続いていたが、配給だけではとても生きることは出来なかった。 第43回のように、人々は食料を分けてもらうために海へ山へ出かけて行ったのだ。

 私たちが中学生の頃、社会科の教師は この当時の食糧難を象徴する美談として、”山口良忠判事”の話しを好んでしていた。 山口判事は食糧管理法に反して闇市で いわゆる闇米を売る人々を裁く立場にあった。 そのような人々を裁く自分が闇米を食べてはいけないとの思いより、配給の食糧以外は口にしなかった。(家族には闇市のものを食べさせたという) そのため激しい栄養失調に陥り、22年の10月に亡くなった。 最近の教師はこのような話をするのだろうか?

 何とか再就職先を見つけた周作も うかうかしていられない。 急激なインフレを抑制するため、24年3月にデトロイト銀行頭取ドッジの進言によって始まった超緊縮財政により、日本は未曽有の大不況に陥る。 大小の企業が立ち行かなくなり次々と潰れていく一方、日本の労働者に浸透してきた共産主義思想を背景とする過激な労働争議が起こり、社会は大混乱する。 あのトヨタが潰れそうになるという、まさにTBSのTVドラマ「LEADERS」の描いた混乱の時代となる。 国鉄の下山総裁が轢死体となって発見される下山事件なども起こり、社会不安は増し、人々は一向にやって来ない明るい”戦後”に疑いを持ち始めるのだ。

 その混乱の時代に終止符を打つきっかけが、25年6月に始まった朝鮮動乱だ。 戦争によってもたらされた社会の混乱は、日本からの独立に夢と希望を抱いていたはずの隣国の内戦によって解消されるのだ。 何とも皮肉なことだ。 この朝鮮特需や、後の高速道路建設やオリンピック特需でようやく日本人は”もはや戦後ではない”と言えるようになるのである。 呉市においては、25年6月に「旧軍港市転換法」が施行され、平和産業港湾都市として再生が図られる。

 おとうさんも ようやく再就職できるかな? 個人的にはMAZDAに入ってもらって、ロータリー四十七士になってもらいたいが。

 日本の大陸進出に端を発した朝鮮半島の混乱は、今なお続いている。 北方領土問題もいまだに解決の糸口は見えない。 そして、中国・韓国は機会があれば日本の植民地政策の非道性を訴えることで、自国政策の正当性を強調している。 すずさんたちの世界の歪みは解消されたが、現実の世界はまだまだ歪みっぱなしなのである。

 話が大きくなり過ぎたが、この戦後の混乱は私たちのごく身近な人たちの人生にも大きな影響を与えたはずだ。 私事ではあるが、久夫と同い年の私の母は中学校に二日しか行っていない。 親が突然死んだので、翌日から兄と姉が働きに出、母は家に残り幼い弟・妹の世話をしたのだ。 社会保障も期待できない25年4月、まさに朝鮮動乱直前のことだった。 その後、朝鮮特需や名神高速建設などの恩恵で母の一家は何とか食いつなぐことが出来、弟・妹も無事に義務教育を終えることが出来た。 子育て(?)が一段落した母は自身も大阪に就職口を見つけ、やがて私の父と出会って はるか遠い山口にヨメに来た。 姑は私の誕生を見届けたのちにすぐに鬼籍に入ったが、まだ我が家(まさに私の実家)には父の妹・弟が3人も居た。 当時は大変な貧乏暮らしを強いられたそうで、家の半分を他人に貸して賃料を取っていたそうだ。 当時のことを振り返って父が言うには、「お母さんは大変な苦労をした、本当は家に帰りたかったのだろうが、家に帰る汽車賃もなかったんじゃけぇ」ということだ。 そんな苦しい生活だったが、やがて小姑たちも独立し、私と弟もすくすくと育ち(幸い二人ともいい子だったので)、生活も軌道に乗ったころに母は夫婦の長年の夢である新居建設費の足しにと、市内のとある施設に働きに出た。 やがて仕事にも慣れた母は、少しでも条件を良くしようと ある国家資格を取ろうと、毎日熱心に勉強していた。 そんなある日、私が学校から帰ると、母がその資格の参考書を風呂釜に焚きながら泣いていた。 中学を卒業していない母には、受験資格が そもそもないということを知ったのだ。 その時の母の悔しそうな後姿は今でも私の記憶に刻みつけられている。(まあ、原付の筆記試験も受からなかった母ではあるのだけど) 戦争が終わってから30年も経った日の出来事である。 そういえば、母は本を読むのが好きだ。 来る日も来る日も公民館で本を借りて来ていたものだ。 それは、若き日に勉強が出来なかった分を何とか取り戻そうとしていたのかもしれないな。


 戦争が終わったからといって、けっしてすぐには心休まる日々はやって来ない。 でも、それでもこの作品の人たちは日々を懸命に生きていくのだろう。 そして私たちのいる この世界に希望の灯をつなげてくれるのだろう。

なぜ、21年1月に終わるのか?

 この物語が21年1月に終わるのはなぜだろう? 歴史上の出来事を紐解くと、劇場版公式HPの年表にもあるように、この月に”憲法改正要綱”が発表されている。 日本が新しい国に生まれ変わることを確信しながら、ようやくこの物語は終わりを迎えられるのだ。 うむ、きれいにまとまっている。 美しい締め方だ。 だが、現実は甘くない。 この時に自由党が公表した”憲法改正要綱”は、明治憲法を踏襲しすぎていたためにGHQから”ボツ”にされているのだ。 新憲法で日本が生まれ変わることを実感しながら終わるのなら、GHQ案をもとにした”憲法改正要綱”が出された21年3月であるはずだ。

 1月になる理由は やっぱり よくはわからないんだけど、2月だと少女が飢えと寒さで危険だからじゃないかな?と、とりあえずはそう思っておこう。



参考文献ほか

 巻末の参考文献一覧には、呉や広島、そして時代や風俗を表す資料がずらりと並ぶ。 その中で特筆すべきなのが、”時代について”の筆頭に挙げられている、「戦争中の暮らしの記録」(暮らしの手帖社刊、初版発行44年8月)だ。 これは、全編が読者から寄せられた戦争体験集で構成されている、「暮らしの手帖 96号」(43年8月)を書籍化したものだ。 H28年のNHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」のクライマックスのエピソードとして、この号の話しが取り上げられていた。 この本の序文にあたる「この日の後に生まれてくる人に」という文章は、暮らしの手帖編集長の花森安治が無署名で記したものだが、その内容は「この世界の片隅に」執筆の精神と相通ずるものがある。 おそらく、この本は作者に多大な影響を与えたものと思われる。 この序文だけでも一読の価値はあると思うので、一度手に取ってみてはいかがだろうか。

 お世話になった施設には、大和ミュージアムや国立国会図書館、戦争中の子供の遊びや「愛國イロハカルタ」を参考にされた”日本独楽博物館”などが並ぶが、聞き慣れないのが ”しょうけい館”だろう。 これは、戦傷病者資料館(東京都千代田区九段下)のことで、文字通り、戦争で負傷したり疾病を患った方たちと そのご家族たちの証言や貴重な資料が集められている。 戦争が終わった後も、戦傷病者とその家族のご苦労は続く。 この方たちの話に耳を傾け、作品に反映させようとした作者の真摯な取材姿勢に感心するが、一方で爆弾や砲撃によって負傷した人たちが どのようなダメージを受けるのかを探ろうとした、作者の冷静な製作者としての目線もうかがい知ることが出来る。   

あとがき

 これだけの大作の割には、あとがきは短いような気がする。 「正直、描き終えられるとは思いませんでした。」という作者の告白。 万感胸に迫るものがあったのだろう。 この作品は、作者の多大な努力だけではなく、さまざまな天佑と奇跡に助けられて完結を迎えることが出来と思う。 作品完結後の劇場版製作過程においても、信じられないほどの偶然や奇跡(劇場版準備室の最初の事務所が「街角花だより」のモデルになった花屋の上なんて奇跡以外の何物でもない!)が起こっている。

兄妹から少女へ  

 巻末、久夫が浮かべた船に晴美が花を添えて少女に届けられる。 その花は、やはり”つめくさ”だ。 この花の花言葉は”私を思い出して”ということは以前にも書いたが、この花にはまだまだ別の花言葉がある。 それは”約束”であり、そして”しあわせ”である。

第44回 人待ちの街(21年1月) [下巻]

「第44回 人待ちの街(21年1月)」 掲載’09年(H21年)1月20日号 (発売日 同年 1月6日ころ)

サブタイトルが…

 これまでのエピローグ3作は、サブタイトルにその回の中心人物の名前が掛けてあった。 (りんどう、鳥) しかし今回は、”待ち”と”街”。 てっきり浦野家が掛けてあるかと思ったのだが… ひょっとしてアナグラムになっている?

まだ戻ってない おじちゃん

 草津の森田家を訪問するすず。 終戦から5か月。 しかし、おじちゃんはまだ戻っていない。 というか、この作品では水原以外は誰も戦場から戻ってこない…

具合の悪いすみ

 劇場版でこのシーンを見たとき、私は すみは過労で倒れていて、腕のあざも点滴を打った跡だと思った。 いや、思おうとしていた。 頭の中で、真っ先に疑うはずの原爆の後遺症の可能性を本能的に排除していた。 当時の読者の感想にも、『最終回直前でこの流れはキツイ』というものがあった。 それほどまでに辛い展開。 さらに追い打ちをかける すみの告白。

たった3コマで語られる両親の死

 おかあちゃんとおとうちゃんが既にこの世にいないことが、たった3コマで語られるのだ。 作者はこの展開があるから、左手描写を続けたのか? 本当に辛すぎる展開。 しかし、それは70数年前の日本に実際にあったことなのだ。

すみが見た地獄を想像できるか?

 ”早う来れんでごめん”と言う すずに、”早う来んでえかったよ”と返す すみ。 自分の身も辛いのに、それでも姉を気遣う心優しき娘。 ”早う来んでえかった”と言う言葉の裏に、どれだけの辛い思いをしたのか... 

 この作品は、読み手の年齢や経験に極度に依存する作品である。 すみが味わった地獄の体験は、私たちの世代と若い人たち、そして私たちよりお年を召した世代では見えている景色がきっと違うと思う。 実際に戦争を体験した人には及ばないとしても、私たちの年代(30年代生まれ)は、かろうじて すみが見たのと同じ景色を想像できる最後の世代ではないだろうか? 戦争や原爆の記録映画が学校で強制的に上映され、映画やドラマや絵本で戦争を疑似体験できた世代。 そして親から戦争時のつらい体験を聞けた世代。(私の場合は”ひもじい”しか聞いたことがないが) そして何より、「はだしのゲン」をリアルタイムで読んだ世代。

 最近、この作品を引き合いに「はだしのゲン」を全否定する論調を見かける。 たしかに、その直接的、暴力的な表現や、徹底した反戦思想、そして作者の政治的な言動に、近年は同作を毛嫌いする人が多いのも事実だ。 しかし、だからと言って、「はだしのゲン」の作品価値自体が貶められる必然はない。 間違いなく、「はだしのゲン」は日本漫画史に輝く金字塔の一つであり、それが「少年ジャンプ」という雑誌に連載されていたという奇跡に、私たちは感謝しなければいけない。 極論すれば、「はだしのゲン」がなければ私たちは”すずさん”には会えなかったのだから。

 「ゲン」が原爆を漫画で描くという道を切り開かなければ、双葉社の編集者は広島出身という理由だけで(いくら秘めた才能があったとしても)、4コマ誌周辺でしか活躍経験の無い一女性作家に”ヒロシマ”の漫画を勧めたりはしなかっただろう。 「ゲン」という作品を読んでいなければ、その女性作家は「ゲン」とは違う方法で、いかに自分らしい作品を生み出すかということに苦しんだりはしなかっただろう。 しかし、初めて手にした漫画が「はだしのゲン」の2巻だったという その女性作家=こうの史代は苦しんで苦しんだ結果、「夕凪の街」という作品を世に問い、それが世間に認められ、作家としての地位と信頼を得、自分の思い描く作品を(ある程度)自由に描ける機会を手にするのである。 「はだしのゲン」がなければ、こうの史代という作家は 一部では評価されたではあろうが、その活躍範囲が4コマ誌、あるいは同人誌周辺から抜け出すことはなかったかもしれないのだ。

 そして、その「はだしのゲン」を読んでいるからこそ、私たちは「夕凪の街」の皆実が”しあわせ”だと思うことを 何故あれだけ恐れるのかを、すみがどれだけの地獄絵図を見て来たのかを、そして、その地獄をすずに見せなくてよかったとどれだけ心の底から思っているかを想像できるのだ。

 おかあちゃんと、そして行方の知れぬ将校さんを広島市内で必死で探しまわった すみ。 あまりにも過酷な運命をすみに背負わせた作者。 ”治らんとおかしいよ”と言うセリフのとき、手のアップだけで顔は見えない。 これにより、このセリフは読者の願いにもなり、そして作者自身の祈りにもなる。

すみが助かる未来だってある

 劇場版を見た人の感想を見ると、すみがこのまま亡くなってしまうと思っている人が実に多いことに気付かされる。 また、H29年5月時点で、Googleで「原爆症」と入力すると、予測変換の筆頭に”すみちゃん”と出てくる。 非常に多くの人が すみの行く末を案じていることはよく分かる。 作者が結末を明示していない以上、すみの生死を左右するのは、実は私たち自身の想像力と正しい知識なのだ。

 すみのように、めまいや虚脱感、そして皮下出血の症状が出ても、戦後50年以上生存された方は、実は多くいらっしゃる。 被爆の深刻さは当然、どれだけの強さの放射線をどれだけの時間浴びたかという”被爆量”が左右する。 現在では線量計があり、原発の作業員は厳密な年間被爆量の管理を行いながら作業されているが、戦後間もなくは 当然そのような計器はなく、入市した人たちがどれだけの量 被爆しているかは知るすべがない。 しかし、経験則より 被爆者の生死を分かつものとして、原爆症の発症時期が(結果論的ではあるが)大きく関与していることがわかってきた。

 広島の平和記念資料館の資料によれば、9月10日までに発症した人は重篤な状態にあり、そのまま亡くなってしまうという。 しかし、9月10日以降に発症した人たちは比較的症状が軽く、回復する可能性も高いのだという。 もちろん、おとうちゃんや 「夕凪の街」の皆実の姉 霞のように、10月になってから発症して亡くなる方もおられるし、適切な治療を受けられずにそのまま亡くなってしまう方もおられる。 ただ、すみにだって生存する可能性は十分にあるのだ。

 だが、仮に すみが回復し生き永らえたとしても、けっしてバラ色の人生が待っているわけではない。 常に再発との恐怖と戦いながら生きて行かなければならないのだ。 皆実が30年の9月に亡くなるのは決して偶然ではない。 広島市、長崎市の白血病の異常発生率は原爆投下後 徐々に上昇していき、7年目から8年目で頂点に達するのだ。 白血病の異常発生率は その後徐々に下がり、40年ころには被爆していない人たちと同等のレベルになっていくが、今度は がん の発症率が上がっていくのだ。 ”てっきり死なずにすんだ”と信じ、新たな生活に再び夢をかけようとした矢先に、突然の病魔が襲ってくる… 被爆者の方たちは そんな恐怖に打ち克ちながら、人並みの日常を勝ち取るために日々を戦い抜いておられるのだ。  

 すみ が適切な治療を受けられるかもわからない。 原爆症に対する直接的な治療法は、実は現在においても確立されていないと言ってもいい。(新陳代謝を高める方法が取られるようだ) 原爆投下直後は、誰も放射線による人体影響はよく分かっておらず、玄米のような自然食が良いといったような迷信まがいの方法だったり、当時 開発されたばかりの抗生物質 ストレプトマイシンが効くということが一部で信じられていたようだ。 ストレプトマイシンが日本で正式に販売されるのは25年からであり、それまでは高価な輸入物を怪しいルートで入手したのであろう。(ストレプトマイシンがはたして原爆症の治療に効果があるのかは不明だが、免疫力の落ちた患者の感染症予防には効果があったかもしれない) 

 また、現実問題として、月々の医療費も生活を圧迫する。 第42回のところでも触れたが、被爆者への医療支援は遅れに遅れる。 原爆手帳保持者への医療費支援の開始は、すみが34歳になるときまで待たないといけない。 そして、入市被爆者である すみもまた、原爆手帳がすぐに交付されるかどうかはわからないのだ。 

 そして、(これは「桜の国」のテーマでもあるが)被爆者に対する云われなき差別とも戦わなくてはいけない。 福島からの避難者に対する差別的言動の例を見るまでもなく、無知、あるいは偏った知識による偏見が、日本に今なお根強く残っていることを、はたして すみちゃんや知多さんはどう思うだろうか?

鬼ぃちゃん冒険記

 かつて、学校の床下に消えたはずの すずの鉛筆で描かれる「鬼ィチャン冒険記」。 今回は4ページ増の12ページだが、うち3ページが、この「鬼ィチャン」のためにわざわざ割かれている。 上巻の「鬼ィチャン」はページ数調整のための描き下しだったが、今回は本編に最初から組み込まれている。 上巻を見てない人は何じゃこれ?と思うだろう。 この描き下ろし3本で、鬼ぃちゃんが”ばけもん”となることが示される。 

 この作品に、なぜ”ばけもん”が登場するのかは、多々の議論があるところだろう。 私は、”ばけもん”は読み手にとっての 心の安全弁として置かれていると思う。 特に下巻では辛い展開が続くので、この話しはノンフィクションではない、あくまでも まんがのお話しなのだと、読者の心に逃げ道を用意してくれているように思うのだが。

足元の骨

 川舟から降りたすずの足元に転がる人骨。 この作品では描かれないが、それは「夕凪の街 桜の国」のコミックス22ページで描かれた人たちのなれの果てだ。

戦災孤児たち

 江波の実家に戻ったすずが遭遇するのが、勝手に留守宅に上り込んでいた戦災孤児の兄妹たち。 戦争で親を失った戦災孤児は23年時点の調べで、全国で28248人いるとされた。(下表参照)

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 注目すべきなのは、広島県の孤児数が全国で一番多いことだ。 東京大空襲を経た東京都の数をはるかに凌いでいる。 原爆で一瞬にして両親を失った子が いかに多かったのかが、このデータからもわかる。 また、孤児の中で何らかの施設に保護されていない、いわゆるストリートチルドレン化した孤児の割合も広島が抜きんでて多い。 なお、上記表の数は、あくまでも公式に確認された孤児の数であることを忘れてはいけない。

連絡乞う

 江波の実家の、おとうちゃんが描いたと思われる貼り紙には、お母ちゃんだけでなく、鬼ぃちゃんが帰ってくることをも想定している。 おとうちゃんは家族全員の再会を願っていたのだ。

「太田さん?」

 広島市内のシーンで、私は画面の隅に皆実たちが描かれていないか探してみた。(「長い道」の中に”やよいちゃん”や”チクリン”が描かれているように) しかし、作者は別の方法を取っていることを公言している。 すずが「太田さん」と間違えられているが、これは「桜の国」の主人公 七波の母、京花の旧姓である。 こうの作品では、それぞれの作品世界が少しずつつながっている。

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※クリックすると大きくなります。


 作中の時代がラップしている この2作もまた、こうして少しだけ関連づけられているのだ。(さんさん録には東子とその娘が出てると思うんだけど…)

今回の主役は?

 みんながどこかに傷を抱え、そして誰かを探している広島の街。 そうか今回の主役は浦野家だけでなく広島の街、広島の人々でもあるのか。 だから「人待ちの街」なのか。

なぜボケるっ!!!

 主人公が作品のタイトルの元となったセリフを言い、夫婦の永遠の愛を誓う。 この作品の恋愛パート最大のクライマックスだ。 もうこのまま、「永い間ご愛読いただきありがとうございました。 正直、描き終えられるとは思いませんでした。」とフィナーレになってもおかしくない展開。 なのに、なぜここでボケるっ!!! 作者のテレ隠しか? それとも、まだ終わらせられないことがあるのか? 何よりも、左手による背景描画がいまだに続けられている。 やはり、このままでは終わらせられない何かが作者にはあるのだろう。 作者のこの静かな怒りは、いったいどこから来ているのだろうか?

 それにしても周作がかわいそうだ。 第31回で危惧していたことが、よもや現実になろうとは。 劇場版では、このすずさん史上最大のボケが周作に優しい仕様に改編されている。 ブルーレイ&DVD化の際には、映像特典でもいいので、ぜひこの原作のオチを収録してほしい。(のんの”すんません”が聞きたい。)




21年1月1日、天皇の人間宣言が出される。 古い日本の体制(それは明治維新後に急造されたものなのだが)が少しずつ解体されていく。

呉へ! 晴美を探す旅に出る [番外]

 「この世界の片隅に」連載終了後、こうの先生が呉市のために描いた観光ポスター。 そのうちの1枚には晴美が描き込まれているという。 そのポスターに興味を持った私は、ネットでいろいろと調べてみた。 最近では、こうの先生の原画展の会場や、福知山のシネマの企画展で飾られていたという。

 このポスターはH22年ころ、呉市内の公民館や主要な観光施設に大量に配布されたという。 余ったものをタダで貰って帰ったという市民が結構いらっしゃったようだ。 このポスター、いまだに呉市のどこかに色あせた状態で貼られたままになっていないか? 私はさらに調べてみた。 主な目撃情報は、H23年6月に市役所1Fの協働センター、H24年5月 ヤマトギャラリー零の原画展にて、H24年6月 入船山記念館の郷土館、そして昨年(H28年)12月に呉駅の観光案内で目撃情報があった。 呉駅の観光案内所はかなり希望が持てそうだ。 私はGWの帰省時に呉を巡る計画を立て、そして実行した。

 H29年5月1日、帰省先の山口から始発のレールスターに乗って広島へ、そのまま呉線に乗り継ぎ、8時半過ぎに「宇宙戦艦ヤマト」のテーマソングに迎えられて呉駅に着いた。

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 平日とあってか、呉駅の改札はたいへん混雑していた。 駅構内には劇場版のロケ地マップなどが展示してあった。 早速観光案内所を探した。 案内所は駅からゆめタウン方面に抜ける東側の連絡路のそばにある。

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 あった! 駅側の入り口の内側に、例の観光ポスターがある。 しかし、まだ開館前だ。 10時までにはポポロシアターに行っておきたいので、とりあえず市内に向かうことにする。

 駅前から図書館、文化ホールの位置を確認(開館前)し、体育館へ。 中には入れたがポスターは見当たらない。 そして呉市役所に。 旧庁舎は7月1日の市街地空襲の際も原形を留めていたというが、今は近代的で開放感あふれる庁舎である。 中には劇場版関連のパネル展示があった。 その市役所の1F、市民用のカウンターの反対側の国際協力コーナーの一角に協働センター受付はあった。 その横のガラスの壁に覆われた作業スペース内に、パネルに入れられた1対の観光ポスターを認めることが出来た。 だが、あいにく今日は協働センターに常駐の職員がいない。 協働センター自体の休みは木曜だが、本日(月曜)のように常駐者がいない場合もあるようだ。(別のところに協働センターの本体があり、そちらにはいるようです) とりあえず、あることは確認したので商店街のほうに向かう。

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 中通り(現れんが通り)の商店街ではロケ地マップは多く見かけたが、例の観光ポスターは見かけなかった。 呉は観光都市でもある。 次から次へと新しい企画が出るので、7年前のポスターの居場所はないのだろうなと、何となく納得しながら市内のスイーツ処を散策し、ポポロシアターへ。 ちなみに、”ヤマトギャラリー零”はポポロの斜め前にあるそうですが、私は大和ミュージアムの中にあると思い込んでいたので、(2・3度前を通ったと思うが)まったく気づきませんでした。

 劇場版を見たのち、小春橋などを散策して駅前に戻る。 道中、色んな店先を覗いて見るが、やはりロケ地マップはあっても観光ポスターは見当たらない。

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 駅前の”森田食堂”で昼食。 他の人がみんな頼んでいた中華そばと出汁巻き卵を頼む。 我が故郷 山口の「亀山食堂」のラーメンに通じるものがある味。(亀山食堂より、ちょっと塩分多め。 これが呉の基準の味なんだろうな) 美味しゅうございました。 こういう食堂はいいね。 今度は、夕方じっくり飲みながら楽しみたい。

 さあ、いよいよ駅前の観光案内に突入。 まずは市内のバス路線図を入手して、あらためて館内を見渡す。 劇場版ポスターにロケ地マップ。(一式貰う) おお、受付の横の壁には劇場版準備段階に作られたポスターが。

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 これが見られるとは思ってなかった!

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 青葉のもある!

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 こちらは、片渕さんのサイン入り。 設定資料をもとにしているようだけど、本当によく作りこまれている。 それにしても、片渕さんたちもすごいけど、呉・広島の人たちもスゴイよね。 よくも6年間待ち続けたよね。 いや、待ってただけじゃなくて支援もしてたんだから。 広島の人って、そんなに忍耐強いんでしょうか? あー、でも、マツダのロータリー開発ストーリーを思いおこせば、それもまた納得。 マツダの252iがルマンに挑戦し始めたころ、誰もこのメーカーが勝つだなんて思ってなかったもの。(たぶんマツダ社員も...)

 そして念願の観光ポスターに向かう。 あった、そして、会えた!

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 こちらは”過去編”。 まだまだ(比較的)平和な時代。

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 径子が10歳くらい? 着物の柄は”柳に燕”。 ”梅に鶯”同様、おめでたい図柄で花札の絵にもなっているものですね。

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 周作は5歳くらいか。 ということは大正末か昭和のはじめくらい。 大和は計画(A140計画)すら出来ていませんね。 そして、その大和が建造されたドックが描かれているのが”現代編”。

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 現ジャパン・マリンユナイテッドとなっているドック。 その手前の道路には...

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 晴美。 ちなみに、晴美がいるところには歩道はありません。 普通の人間は行けないのであしからず。 それにしても、こうの史代という作家の恐ろしさよ。(←褒めています) こういうことを、さらりとやってのけるところに、ファンは惹かれるのです。(広島風に言うと”男気”ですね、女の人だけど) 晴美は今も呉の港を見守ってくれているのですね。

 どうやら、このポスターは劇場版コラボで飾られているのではなく、「日本観光ポスターコンクール」入賞作品として掲示されているようです。 ひょっとして観光情報プラザの人、このポスターの真の価値を知らないで飾っている? まさかね。

 次は入船山方面へ。 駅前より音戸・警固屋方面バスに乗って”子規句碑前”で下車。

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 大和のドック。 大和の塔のところにある歩道橋から望む。 ドックの建屋が不ぞろいなのは、中で建造中の船の大きさを悟らせないためだそうです。 さて、例のポスターはどこからスケッチされたのか? 事前にGoogleで宮原小学校あたりだと見当をつけていたので、そちらに向かう。

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 ああ、ここだここだ。 木が大きくなってますね。 ”あの道”は、現在は国道487号線になっています。


(H29年6月5日追記)

 なお、劇場版では、上の写真の撮影ポイントそのものが”あの道”に設定されているそうです。 すなわち、宮原小学校の校庭の下側の市道(句碑丸子谷線)ですね。

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 観光ポスターの晴美の位置と撮影ポイント(劇場版での”あの道”)の位置関係はこうです。 


 感慨にふけりながらも坂を下り、入船山記念館にむかいます。

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 海自の呉地方総監部、向こうには大和ミュージアムとてつのくじら館、そしてゆめタウン呉が見えます。 

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 入船山記念館に到着。 山側にあるかと思ってた。 かつて観光ポスターが置いてあった郷土館はこの手前。 チケット売り場を兼ねています。

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 中には昔のものの展示がありましたが、残念ながら観光ポスターはなし。 事務所の奥のほうにも見当たりません。

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 代わりに置いてあったのがロケ地マップ。 これ、呉に行って初めてわかったけど、結構詳しいです。 至れり尽くせりの情報満載。 スタッフの作品愛を感じられます。 別館で呉市の成り立ち、昔の地図を確認したのち、隣の美術館に。 劇場版公開を記念してこうの先生の原画展が開かれていたので、ミュージアムショップに図案集が残ってないかなと思ってたんですが… ミュージアムショップ自体がない。 隣のカフェがある別館には単行本やロケ地マップを確認できましたが、やはり観光ポスターはなし。 あまり収穫の無かった入船山地区でしたが、これでなんとなくわかった。 観光都市である呉では、昔のポスターを貼ったままにはしていないのだなと。 

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 入船山記念館の向かいにある海軍病院の階段跡。 市内に向かい、とりあえずホテルにチェックインしよう。 途中、天明堂さんで”おんらいまんとう”を購入(パイン・れもん3個セットを買ったら、それぞれ1個ずつおまけがもらえました)。 その隣の”制服のフジ”さんでグッズを確認。 ここは本職は官給品の装備を作っているところですが、劇場版コラボグッズの製作も手掛けておられます。 今度は是非、”金魚柄のハンカチ”も作ってください。 ここでは、海自ティディベアを購入しホテルへ。 

 ホテルに荷物を置いて、てつのくじら館(劇場版と青葉の説明パネルあり)、大和ミュージアム、ゆめタウン呉、フェリー乗り場、呉マリンと回る。 やっぱり観光ポスターはない。 

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 フェリー桟橋から見た大和のドック。 なかなか、”朽ち果てた観光ポスター”はないな。 どこかの公民館とかにないかな? ホテルで水分補給して図書館に。 図書館では、昔の呉市の写真などを探したが、あまり郷土ものは見つからず。 コミックのコーナーにこうのさんの作品があったのと、歴史のコーナーに歴史街道の呉特集本(こうのさんのインタビュー記事あり)があったくらい。 早めに図書館を切り上げ、小春橋から灰ヶ峰を望み、駅前で広島の先輩と合流して呉の地酒で乾杯。

 翌日はレンタカーを借りて、江田島の公民館(ポスター見つからず)、第1述科学校見学、長迫海軍墓地、三つ蔵、灰ヶ峰山頂と回り、呉港へ。

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 フェリーに乗って呉を離れ、広島へ向かいます。 ありがとう、すずさんの街 呉。

 結局、確認できた観光ポスターは観光情報プラザと市役所の2セットのみ。 でも、きっと どこかに、呉市の片隅に、晴美が待っていてくれるかも知れないと 今でも思うのです。(情報はH29年5月1日時点のものです)