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「夕凪の街 桜の国」放送 15日ファミ劇で [八月が来るたびに]

 今年も”終戦の日”に向けて、いろいろな番組や特集が放送されています。 こうのさんの「夕凪の街 桜の国」の劇場版が8月15日の12:10から”ファミリー劇場”で放送されます。 「はだしのゲン」のアニメ版とドラマ東京大空襲」に挟まれての放送となります。

 コトリンゴさんの「”この世界の片隅に” コトリンゴの映画音楽 -完全版-」が15日深夜の25:00(16日午前1:00)からNHK総合で、そのコトリンゴさんも出演する「いのちのうた2017」が17日深夜の24:10(18日午前0:10)より同じく総合で放送されます。 

 そして事前の予測通り、「この世界の片隅に」の再上映も多くの劇場で始まっていますが、各地の自治体などが主催する単発の上映会も多数(8月4日付けの朝日新聞の記事によれば年末までに340会場以上)開催されています。

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 上記は愛知県豊田市の上映会のパンフレット。 私は、この上映会のことを朝日新聞の記事で知りましたが、朝日新聞は今夏、この作品に絡めた終戦特集記事を多く作成しています。 まあ、朝日新聞はエンドクレジットにも入っているし… 朝日新聞は、最終的に、こうの先生に従軍慰安婦の話しを描いて欲しいんだろうな... 今のところ、こうの先生は朝日と絶妙の距離感を持って仕事をされているとは思うんだけど。

 「この世界の片隅に」という作品自体(原作も劇場版も)も、絶妙なバランス感覚で作られています。 どんな立場・思想の人に対しても、そして(海外展開を見越して)どこの国の人に対しても、抵抗なく入って行けるような作りになっています。(なにせ、作中の人物は誰も”戦争反対!”なんて言ってないし) あくまでも、読んだ(視た)人自身で考えてもらおうというように。 これは、「夕凪の街 桜の国」が世に出た後に、作品自体やこうのさんという作家自身が、マスコミや論客を名乗る人たちによる都合の良い解釈に翻弄された苦い経験から来ているものなんでしょうね。 (「なぞなぞさん(”平凡倶楽部”収録)」参照)

 ”先の大戦”は、けっして、暴走した軍部や無能な政治家によって引き起こされたものではないと私は思います。 当時の日本人を戦争に導いたのは、自らの主張こそが正義だと振りかざしていた人々です。 彼らの恐ろしいところは、自らの立ち位置を示すことなく、自分たちの信じる”正義”こそが世界の普遍的な原理であると国民を先導することです。 彼らの本性は、この時代になっても、多少 右が左になっても全く変わってないと思います。 本当に、おかしいなと思ったら、自分で調べて自分の頭で考えないと。

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模擬原爆とミス愛知(その2) [八月が来るたびに]

 もう一つの展覧会は豊川市の桜ヶ丘ミュージアムで開催されています。

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 「青い目の人形と答礼人形 里帰り展」です。

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 青い目の人形は、日米関係が悪化し出した昭和2年に日米友好のしるしとして米国人宣教師のギューリックが中心となり、12,700体がアメリカから贈られました。 これに対し、日本からは渋沢栄一が中心となり58体の市松人形が返礼として贈られました。(日本側の数が少ないですが、日本の贈った人形は後の人間国宝になる人形師さんが作られた、家が一軒建つくらいのものです。) この民間の交流は緊張した日米関係に束の間の安らぎを与えましたが、歴史の流れを止めることは出来ず、多くの青い目の人形が”敵国のスパイ”として壊されたり、戦災で焼失しました。 その中で、人形には罪はないと密かにかくまわれた人形たちが戦後相次いで発見されたのはご存じのとおり。 現在、日本国内に334体の青い目の人形の存在が確認されています。

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 現在、愛知県には10体が現存しますが、そのすべてがこの展示会に展示されています。 一方、日本から贈られた答礼人形も、いくつかは消息が分からなくなっていました。 そのうちの一つ、”ミス愛知”と名付けられた市松人形がH22年、アメリカ ロードアイランドのオークションで発見されました。

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 発見時のミス愛知は、ご覧のような状態でした。 黒髪の代わりに洋風のかつらを、着物の代わりにドレスを着せられていたそうです。 日本の青い目の人形のように、かくまわれていたのでしょうか? このミス愛知を何とか日本に里帰りさせようと奮闘されたのが、青い目の人形の研究をされていた元中学教師の夏目勝弘氏です。 

 氏を中心として「答礼人形を里帰りさせる会」が組織され、「この世界の片隅に」劇場版でも活用されたクラウドファンディングの助けも借りて、ようやく里帰り展が実現されることになりました。 ミス愛知も日本の人形師さんの手によって修復され、愛知県に現存する青い目の人形10体、ギューベック宣教師のお孫さんによって始められた”新”青い目の人形 5体の出展も決まり、いよいよ展示会まで あと 一月というときに、夏目氏は病気で他界されます。 …というような話を、ここ数日 東海地方のローカルニュースが繰り返し報道していたのでした。 国どうしは喧嘩していても、鬼畜米英と叫んでいても、心の底では絶対につながれるはず。 そんな日米の民間交流をあらためて垣間見ることが出来ました。

 本当にいい展示会でした。 この里帰り展は豊川を皮切りに、9月10日まで愛知県の4つの会場を巡回する予定です。

 国どうしは戦争していても、どこかで友情の根はつながっている。 そんなエピソードが呉にもありました。

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 この、一見異様な檻の中に入れられたお墓。 呉の長迫海軍墓地の中にある、”英国人水兵の墓”です。 これは明治40年(1907年)、戦艦安芸の進水式に招かれた当時の同盟国である英国の軍艦から転落・水死された水兵を弔ったものです。 当時の旧日本海軍は最大限の敬意をもって、この水兵の霊を弔いました。 時は移ろい、英国と敵対関係となった第2次世界大戦中も海軍はこの水兵の墓を守り続けます。 鬼畜米英の墓がこの地にあることを心よしと思わない人々によって、この墓は度々イタズラ(というより破壊工作)に遭いますが、海軍はご覧のような檻を作って墓を保護するのです。

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 所変わって、こちらは水原の兄も通ったであろう、江田島の旧海軍兵学校の大講堂。 

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 大正6年(1907年)に建設されたこの総御影石造りの立派な講堂は、今でも海上自衛隊の幹部候補生の卒業式などに使われています。 20年7月24日からの呉沖海空戦では、江田島沖の軍艦は攻撃されましたが、この海軍の幹部養成校であった兵学校は狙われることはありませんでした。 一説によると、水兵の弔いに恩義を感じた英国側からアメリカ軍へ進言があったとか、なかったとか。

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 いま、旧海軍兵学校(現第1述科学校)の校庭には、日英同盟締結100周年の記念樹が植えられています。


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 桜ヶ丘ミュージアムでは、今、もう一つの展示会も開催されています。 豊川工廠展です。 豊川工廠は主に砲弾や弾丸などの兵器を製造していましたが、広島の原爆投下の翌日の8月7日に大規模な空襲を受け壊滅します。 女子挺身隊や朝鮮人徴用工を含む多くの人が犠牲になりました。 当時を体験された方の絵を中心とした展示がされています。

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 投下された爆弾の破片。 1/2インチくらいの厚さです。 いかにパンプキン爆弾が大きかったかがわかります。 奇しくも同時期に同じミュージアムで開催されている二つの展示会。 いずれも平和の尊さを考えさせてくれる展示でした。 両展示会とも、かなり


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でした。 

模擬原爆とミス愛知(その1) [八月が来るたびに]

 真夏が、八月が近づくにつれ、東海地方のローカルニュースでも先の大戦を振り返る催しやイベントを報じるようになりました。 そのうち、特に興味深かった二つの展示会に行ってみました。

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 一つ目は、豊田市の産業文化センターで開催された、「豊田市平和を願う戦争展」です。 連動企画として、8月6日に豊田市福祉センターで劇場版の上映が企画されているとのこと。 豊田市教育委員会がバックについているので、大人1000円で鑑賞できるそうです。 うーん、京都行ってるワ、その日。

 さて、今回の展示の目的は、劇場版のパンフレットをもらうことではなく、終戦間際… 20年8月14日の午後に豊田市に投下された、”模擬原爆”=パンプキン爆弾を見に行くことです。

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 この爆弾は、豊田市(当時挙母町)にあるトヨタ自動車本社工場を狙って投下されたものだと言われています。 1発目が現トヨタ会館の南側(当時のトヨタさんの社宅があった所)、2発目が渡合町(現在の豊田ジャンクションから新東名に向かう途中の大きな橋の近く)の集落、そして3発目がトヨタ自動車の本社工場内に落ちました。 トヨタさんでは、午前中に戦闘機の襲撃があり、社員が皆避難していたため、犠牲者はいなかったとのこと。

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 こちらが2発目の破片。 民家の壁に突き刺さっていたものを、その民家の所有者が保管されていたもの。 触らせていただきました。 厚みが2インチくらいある鉄片です。 パンプキン爆弾は、長崎に投下された”ファットマン”と外形・重量が同じで、原爆投下時の航跡を調査するための”模擬原爆”として、国内の数カ所で投下されていました。 終戦直前の投下(米軍は、この日までに日本の降伏を把握)は、パンプキンの通常兵器としての性能を確認するためだったとも言われています。

 丁寧に説明していただいた豊田市の冨田さんによれば、当時の(B-29の空襲拠点となった)テニアン基地には原爆が無くなっていたので、アメリカ本土まで3発目・4発目を取りに行っていた最中だったとのこと。 もし戦争が長引いていれば、豊田市にも原爆が投下されていたかもしれないとのことです。

 確かに。 たとえば、呉工廠の空襲の際は兵器廠は爆撃しましたが、戦後活用できそうな造船ドック(大和のドック)は、そのまま手付かずで残していました。 じゃあ、日本の自動車工場は? 当時、日本に自動車工業が根付くとは(豊田 LEADERS 喜一郎さん以外)誰も思っておらず、アメリカにしてみれば全く利用価値のない工場でした。 本当に、豊田市が第3、あるいは第4の被爆地になっていたのかもしれません。

 皮肉なことに朝鮮戦争時には、アメリカは このトヨタ本社工場で生産されたトラックを最も多く購入して、戦後のトヨタさんの財政状況健全化に大貢献するのです。 戦後、ドッジ不況と労働争議により倒産寸前まで追い込まれていたトヨタですが、人員整理と経営陣の退陣を条件とした日銀の支援により倒産をかろうじて免れます。 その直後の25年6月25日に勃発した朝鮮戦争により情勢は一変。 日本を後方支援基地としたアメリカ軍のトラック大量注文により、一気に息を吹き返すのです。(この辺はTBSのドラマ「LEADERS」で詳しく説明されていますね。) 当初、アメリカの注文はディーゼルエンジン車を得意とする いすゞや日野が獲得するのではないかと言われていましたが、蓋を開けてみると 米軍は補給上の都合からガソリンエンジン搭載のトラックを希望。 偶然、ガソリンエンジンのトラックだけ造っていたトヨタさん(しかも大規模生産ラインが空いている←売れてなかったから)に白羽の矢が立つのです。 

 9月、当初500台の予定だった米軍特需は1000台に拡大、そのすべてをトヨタが総取りします。 10月末時点での特需は、トヨタ 3329台、日産 2915台、いすゞ 815台となりました。(以上 東洋経済新報より抜粋) まさに、アメリカ軍がトヨタ本社を完全に破壊しなかったことで、トヨタは米軍に救われるのです。

 その他、豊田市内にあった飛行場のこと、軍事施設のこと、それらの整備に動員されていた朝鮮人労働者のこと、機銃掃射で亡くなった少女のこと… 私よりも お年を召した皆さんが手作りされた資料が多く展示されていました。 ここにも努力して語りを繋いでいこうとする方が多くいらっしゃいました。 9条死守のコーナーもあって、少し


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かな?

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