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「原爆死」から「ビンの中のお父さん」へ [八月が来るたびに]

 今年の夏は例年にも増して、戦争や原爆を扱った優れた番組が多く放送されていたような気がする。 インパール、満蒙開拓団、沈没軍艦もの、交渉もの。 戦後72年、いよいよ戦災を知る人たち=語り部たちの生の声を聴く最後のチャンスとばかりに製作者側が躍起になったのか? それとも、技術の進歩により、これまで気付けなかった事実に光が当たり始めたからなのか? いや、実はこういう番組は昔から多く製作されていたけれども、単に自分が気付かなかった(興味がなかった)だけで、これは、「この世界の片隅に」という作品に触れた自分自身の意識が変わったからなのか… 今年の夏以降に放送された番組で、特に強く印象に残った作品について触れてみたい。

 NHKスペシャル「原爆死~ヒロシマ 72年目の真実~(放送:2017年8月6日(日) 午後9時00分(50分)、NHK総合)は、広島市が戦後72年間にわたって記録している55万人に及ぶ被爆者たちの記録 「原爆被爆者動態調査」をビッグデータ解析し、原爆投下直後から原爆によって亡くなられたと考えられる人々が、どこでどのように発生しているかを(その亡くなる直前の行動までを踏まえ)、日ごと追って行ったものである。 単純に”原爆死”した人々を平均値だけで語らずに、原爆という未曽有の災厄にさらされた個人の死にざまに焦点を当てた演出が秀逸であった。 俳優の新井浩文さんの乾いた語り口も、受け入れがたい現実を私たちの心に刻みつけるのに効果的だった。 今回のデータ解析により、いわゆる”黒い雨”などに曝されたと考えられる犠牲者が、これまで考えられていた範囲の外側にもいることが浮き彫りになっていく。 

 家族や知り合いを探すため、あるいは救護活動に参加して被爆した”入市被爆者”の中には、今なお、被爆者健康手帳の交付が受けられない人が多くおられる。 それは、爆心地近くに入ったことを証明できなかったり(個人で捜索活動にあたった すみはこれに該当する恐れがある)、国が被爆被害を認めた地域外で活動していたためなのだが、今回の研究により少なくとも後者に該当する人々の救済につながる可能性が見えてきたのだ。 それにしても、今回の番組の元になった広島市の原爆被爆者動態調査には恐れ入る。 投下後72年を経ても、我々は原爆と戦い続けていたのか! そして、記録に留めていくという広島市の静かな戦いは今日も続いていくのだ。

 BS1スペシャル「戦後72年の郵便配達」放送:2017年8月6日(日) 午後10時00分(50分) 、NHK BS1)は、対照的に戦災遺物の一刻も早い組織的な収集と記録が必要であることを私たちに訴える。 戦中、内地から戦地へ、あるいは激戦地から内地へ送られた「軍事郵便」の中には、送り先に届けられずに米軍に押収されたものが多く存在する。 それら郵便物の多くは玉砕の地で押収されたものだ。 日本の軍事情報収集に乗り出していた米軍は、捕虜にならずに玉砕してしまう日本兵の代わりに、これらの郵便物から必要な情報を読み解こうとしていた。 時には戦死した兵士の荷物の中の郵便物まで持ち帰ったという。 

 そして日本語を習得させた優秀な学生を総動員して解析に当たらせたが、厳しい検閲を通過した郵便には、もはや有用な情報はほとんどなかったという。 これらの莫大な数の軍事郵便は、近年、保管期限を過ぎたものから順次民間に払い下げられ、オークションによりコレクター達の間で取引されている。 この「故郷に届けられなかった郵便」がネット上で売買されている事実を知ったNHKのスタッフは、日本のコレクターと接触し、激戦地ごとに仕分けられた彼のコレクションの中の郵便物のいくつかを、72年の時を経て”本来の届け先”に届けようと奮戦するのだ。 なお、この日本のコレクターの本職は とある寺の住職で、彼は供養のために収集しているということだった… 

 番組スタッフの届け先探しは困難を極めた。 既に宛先そのものが存在していないものもあったようだ。 だが、何とか幾通かの手紙を無事に送り先に届けることに成功する。(番組HPによると、番組内では紹介しきれないほどの大変多くの方の善意によって送り先にたどり着いたという) 検閲を乗り越えた手紙の文面は、一見淡々と綴られているよう思えるが、その行間にどれだけの思いが込められているのだろうか? それを思うと胸が締め付けられる思いがする。 手紙を受け取った長野県出身のある女性は、送り主である兄が出征前に親に強く勧めてくれたおかげで学校に通うことが出来たという。 夢の中でしか会えなかった兄の手紙に触れ、彼女はあらためて感謝の涙を流す。

 太平洋戦争激戦地での遺骨収集は今、国の事業として行われている。 この、世界に散らばった軍事郵便の帰還とデータベース化も、先の住職のような個人の力には限界がある(なによりも、このような遺物が埋もれてしまう危険性がある)。 ぜひとも公的な活動として始めることは出来ないものか? すずが鬼ぃちゃんに送った絵手紙が、コレクター間で高値で取引されているとしたら… それはとても気持ちのいい話ではない。

 ETV特集「描き続けた“くらし” 戦争中の庶民の記録」(放送:2017年8月19日(土) 午後11時00分(60分) 、NHK Eテレ)は、「戦争中の暮らしの記録」にカラーページで掲載された、東京都の勝矢さんが戦中の暮らしを克明に描いた絵日記をもとに、勝矢さんの一家が戦争をどう生き抜いたかを追っていく。 冒頭、「この世界の片隅に」劇場版と片渕監督のインタビューが紹介され、片渕監督が勝矢さんの絵日記を戦中の暮らしの描写の参考にされたという事を明かされている。

 勝矢さんは、まさに男版の”リアルすずさん”という方で、戦中の家族の日常をリアルに(しかもカラーで)描写されている。 「戦争中の暮らしの記録」に掲載されたイラストには家族の顔が描かれていないが、番組では家族全員のスナップ写真と勝矢さん自身の手による家族の精緻な肖像画が紹介され、視聴者はより親近感を持ってこの家族の戦中を見守ることになる。 番組の序盤、勝矢さん家族が戦争中なのにいきいきと生活される様が描かれる。 食料が困窮し始めても、配給の生ビール(5リットル!)を小学生の子供と一緒に飲んだり、貴重な牛肉は小出しにせずに一度にすき焼きにして楽しんだりと、まるで北條家のようなたくましい暮らしぶりが紹介される。 楠公飯を炊いた話もある。 

 だが、戦禍はこの家族にも徐々に忍び寄ってくる。 のちの”本番”の時には全く役に立たないと思い知らされる簡易壕での防空訓練。 学童疎開に出した長女が衰弱し、そのやせ細った愛娘を引き取りに行ったりと、やがてやってくる東京大空襲に、この家族はどうなってしまうのか? 視聴者は固唾をのんで画面を見守るほかない。 幸い、家族は無事に東京大空襲を生き延び、勝矢夫妻が天寿を全うしたと知って、視聴者はここで安堵するのだが… この家族の影で、記録を残す暇さえなく劫火に消えて行った幾十万の家族があったことに気付き、たまらない気持になる。

 「ビンの中のお父さん~被爆者調査の真の狙い~(放送:2017年9月24日(日) 午前2時00分(60分)、中京テレビ)は、ABCCの非人道的な活動に焦点を当て、そのABCCに父親の遺体を献体した女性が”父”と再会するまでを追った異色のドキュメンタリーだ。 ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)は、原爆傷害調査委員会と和訳されるアメリカの研究組織で、22年3月に結成された。 広島と長崎に研究機関を持ち、原爆症の本格的な研究に当たったが、その研究機関の名が好意的な文脈の中で語られることは少ない。 番組では、この機関設立の真の目的が被爆者救済ではなく、やがて来る第3次世界大戦=本格的な核戦争への備えであるという事を解き明かしていく。 そして、ABCCの悪名を決定づけた被爆者への非人道的な調査研究(それはまさに人体実験そのものであった)をつまびらかにしていく。

 彼らが主に狙ったのは被爆した子供たちだ。 徹底的な検査に加え、子供たちを大勢の研究者の前で全裸にして写真撮影を行った。 その”検査”は、彼ら・彼女らの成長に合わせ、毎年執拗に繰り返された。 このABCCの悪行の噂は年とともに一般の人にも広く知られるようになり、今回取材に応じられた ある女性は、屈辱的な検査に加え、学校から研究所に検査に行く際に、クラスの男子から『ストリップ! ストリップ!』と囃し立てられたことが、深い心の傷になったと涙ながらに語られていた。

 その悪名高きABCCだが、現在も名前を変えて存続している。 50年4月、日米共同の研究機関として「放射線影響研究所」(放影研)と名前を変えて再出発している。 現在の広島側の研究所は、ABCC時代と同じく、広島駅南東の比治山に その拠点がある。 ABCC時代の反省からか、放影研は開かれた組織としての活動に腐心しており、子供時代に比治山の研究所に招かれた広島市民も多いのではないだろうか。

 さて、番組のほうに話を戻すと... この夏、中京テレビの夕方のローカルニュース「キャッチ!」では、ABCCを何回か取り上げていた。 「なぜ、名古屋でABCC?」と疑問に思っていたのだが、実はこの番組取材の経過報告だったわけだ。 番組スタッフは、原爆症で亡くなった父の遺体をABCCに献体した女性が三重県に在住していることを何かで知り、この女性とコンタクトを取ったようだ。 自身も被爆者である女性は、「本当は嫌だったけど、”人のために役立つから”と何度も説得されて」 父の遺体をやむなくABCCに提供する。 しかし、後年、ABCCの悪い噂を耳にして、「父を献体したのは本当に正しかったのか?」と深く後悔するようになる。 そして、番組の取材に応じるうちに、放影研がABCC時代の遺体の調査結果を希望者に開示していることを知って情報開示請求する。 放影研から送られてきた膨大な資料は、専門知識のない女性にとっては全く意味不明だったのだが、この資料により父の遺体の一部がいまだ保存されていることを知るのだ。

 そして、女性は”父”との再会を果たすべく、故郷の長崎に向かう。 長崎大学医学部に保存されている無数の臓器標本の中で女性は”父”と再会し、語りかけるのだ。 「ビンの中の~」というタイトルには番組スタッフの心遣いが感じられる。 父親の臓器を納めてあるのは、瓶というよりも英語のbinのほうがふさわしい、”医療用バケツ”といったものだったからだ。 クライマックスで女性は研究者に問う、「お父さんの躰は本当に人の役に立ったのですか?」と。 番組では、海外を含めた複数の研究者の証言を紹介している。 「当時の貴重な組織標本があることで、必ず原爆症の治療に役立つことが出来ると信じている」 原爆との戦いは今もなお続いている。

 なお、この番組の取材がきっかけとなり、放影研の責任者である丹羽理事長が、H29年6月に行われた「ABCC-放影研設立70周年記念式典」に於いて、ABCC時代の非人道的な検査で精神的な苦痛を被ったすべての被験者に対して公の場で初めて謝罪したことを追記しておく。

(H29年11月25日追記) なお、「ビンの中のお父さん」は、12月17日(日)25:05~NNNドキュメント'17(日本テレビ)枠内、ならびに12月24日(日)11:00~(BS日テレ)、12月24日(日)5:00~、24:00~(CS「日テレNEWS24」)において再放送が予定されています。

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「夕凪の街 桜の国」放送 15日ファミ劇で [八月が来るたびに]

 今年も”終戦の日”に向けて、いろいろな番組や特集が放送されています。 こうのさんの「夕凪の街 桜の国」の劇場版が8月15日の12:10から”ファミリー劇場”で放送されます。 「はだしのゲン」のアニメ版とドラマ「東京大空襲」に挟まれての放送となります。

 コトリンゴさんの「”この世界の片隅に” コトリンゴの映画音楽 -完全版-」が15日深夜の25:00(16日午前1:00)からNHK総合で、そのコトリンゴさんも出演する「いのちのうた2017」が17日深夜の24:10(18日午前0:10)より同じく総合で放送されます。 

 そして事前の予測通り、「この世界の片隅に」の再上映も多くの劇場で始まっていますが、各地の自治体などが主催する単発の上映会も多数(8月4日付けの朝日新聞の記事によれば年末までに340会場以上)開催されています。

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 上記は愛知県豊田市の上映会のパンフレット。 私は、この上映会のことを朝日新聞の記事で知りましたが、朝日新聞は今夏、この作品に絡めた終戦特集記事を多く作成しています。 まあ、朝日新聞はエンドクレジットにも入っているし… 朝日新聞は、最終的に、こうの先生に従軍慰安婦の話しを描いて欲しいんだろうな... 今のところ、こうの先生は朝日と絶妙の距離感を持って仕事をされているとは思うんだけど。

 「この世界の片隅に」という作品自体(原作も劇場版も)も、絶妙なバランス感覚で作られています。 どんな立場・思想の人に対しても、そして(海外展開を見越して)どこの国の人に対しても、抵抗なく入って行けるような作りになっています。(なにせ、作中の人物は誰も”戦争反対!”なんて言ってないし) あくまでも、読んだ(視た)人自身で考えてもらおうというように。 これは、「夕凪の街 桜の国」が世に出た後に、作品自体やこうのさんという作家自身が、マスコミや論客を名乗る人たちによる都合の良い解釈に翻弄された苦い経験から来ているものなんでしょうね。 (「なぞなぞさん(”平凡倶楽部”収録)」参照)

 ”先の大戦”は、けっして、暴走した軍部や無能な政治家によって引き起こされたものではないと私は思います。 当時の日本人を戦争に導いたのは、自らの主張こそが正義だと振りかざしていた人々です。 彼らの恐ろしいところは、自らの立ち位置を示すことなく、自分たちの信じる”正義”こそが世界の普遍的な原理であると国民を先導することです。 彼らの本性は、この時代になっても、多少 右が左になっても全く変わってないと思います。 本当に、おかしいなと思ったら、自分で調べて自分の頭で考えないと。

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模擬原爆とミス愛知(その2) [八月が来るたびに]

 もう一つの展覧会は豊川市の桜ヶ丘ミュージアムで開催されています。

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 「青い目の人形と答礼人形 里帰り展」です。

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 青い目の人形は、日米関係が悪化し出した昭和2年に日米友好のしるしとして米国人宣教師のギューリックが中心となり、12,700体がアメリカから贈られました。 これに対し、日本からは渋沢栄一が中心となり58体の市松人形が返礼として贈られました。(日本側の数が少ないですが、日本の贈った人形は後の人間国宝になる人形師さんが作られた、家が一軒建つくらいのものです。) この民間の交流は緊張した日米関係に束の間の安らぎを与えましたが、歴史の流れを止めることは出来ず、多くの青い目の人形が”敵国のスパイ”として壊されたり、戦災で焼失しました。 その中で、人形には罪はないと密かにかくまわれた人形たちが戦後相次いで発見されたのはご存じのとおり。 現在、日本国内に334体の青い目の人形の存在が確認されています。

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 現在、愛知県には10体が現存しますが、そのすべてがこの展示会に展示されています。 一方、日本から贈られた答礼人形も、いくつかは消息が分からなくなっていました。 そのうちの一つ、”ミス愛知”と名付けられた市松人形がH22年、アメリカ ロードアイランドのオークションで発見されました。

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 発見時のミス愛知は、ご覧のような状態でした。 黒髪の代わりに洋風のかつらを、着物の代わりにドレスを着せられていたそうです。 日本の青い目の人形のように、かくまわれていたのでしょうか? このミス愛知を何とか日本に里帰りさせようと奮闘されたのが、青い目の人形の研究をされていた元中学教師の夏目勝弘氏です。 

 氏を中心として「答礼人形を里帰りさせる会」が組織され、「この世界の片隅に」劇場版でも活用されたクラウドファンディングの助けも借りて、ようやく里帰り展が実現されることになりました。 ミス愛知も日本の人形師さんの手によって修復され、愛知県に現存する青い目の人形10体、ギューベック宣教師のお孫さんによって始められた”新”青い目の人形 5体の出展も決まり、いよいよ展示会まで あと 一月というときに、夏目氏は病気で他界されます。 …というような話を、ここ数日 東海地方のローカルニュースが繰り返し報道していたのでした。 国どうしは喧嘩していても、鬼畜米英と叫んでいても、心の底では絶対につながれるはず。 そんな日米の民間交流をあらためて垣間見ることが出来ました。

 本当にいい展示会でした。 この里帰り展は豊川を皮切りに、9月10日まで愛知県の4つの会場を巡回する予定です。

 国どうしは戦争していても、どこかで友情の根はつながっている。 そんなエピソードが呉にもありました。

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 この、一見異様な檻の中に入れられたお墓。 呉の長迫海軍墓地の中にある、”英国人水兵の墓”です。 これは明治40年(1907年)、戦艦安芸の進水式に招かれた当時の同盟国である英国の軍艦から転落・水死された水兵を弔ったものです。 当時の旧日本海軍は最大限の敬意をもって、この水兵の霊を弔いました。 時は移ろい、英国と敵対関係となった第2次世界大戦中も海軍はこの水兵の墓を守り続けます。 鬼畜米英の墓がこの地にあることを心よしと思わない人々によって、この墓は度々イタズラ(というより破壊工作)に遭いますが、海軍はご覧のような檻を作って墓を保護するのです。

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 所変わって、こちらは水原の兄も通ったであろう、江田島の旧海軍兵学校の大講堂。 

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 大正6年(1907年)に建設されたこの総御影石造りの立派な講堂は、今でも海上自衛隊の幹部候補生の卒業式などに使われています。 20年7月24日からの呉沖海空戦では、江田島沖の軍艦は攻撃されましたが、この海軍の幹部養成校であった兵学校は狙われることはありませんでした。 一説によると、水兵の弔いに恩義を感じた英国側からアメリカ軍へ進言があったとか、なかったとか。

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 いま、旧海軍兵学校(現第1述科学校)の校庭には、日英同盟締結100周年の記念樹が植えられています。


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 桜ヶ丘ミュージアムでは、今、もう一つの展示会も開催されています。 豊川工廠展です。 豊川工廠は主に砲弾や弾丸などの兵器を製造していましたが、広島の原爆投下の翌日の8月7日に大規模な空襲を受け壊滅します。 女子挺身隊や朝鮮人徴用工を含む多くの人が犠牲になりました。 当時を体験された方の絵を中心とした展示がされています。

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 投下された爆弾の破片。 1/2インチくらいの厚さです。 いかにパンプキン爆弾が大きかったかがわかります。 奇しくも同時期に同じミュージアムで開催されている二つの展示会。 いずれも平和の尊さを考えさせてくれる展示でした。 両展示会とも、かなり


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でした。 

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模擬原爆とミス愛知(その1) [八月が来るたびに]

 真夏が、八月が近づくにつれ、東海地方のローカルニュースでも先の大戦を振り返る催しやイベントを報じるようになりました。 そのうち、特に興味深かった二つの展示会に行ってみました。

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 一つ目は、豊田市の産業文化センターで開催された、「豊田市平和を願う戦争展」です。 連動企画として、8月6日に豊田市福祉センターで劇場版の上映が企画されているとのこと。 豊田市教育委員会がバックについているので、大人1000円で鑑賞できるそうです。 うーん、京都行ってるワ、その日。

 さて、今回の展示の目的は、劇場版のパンフレットをもらうことではなく、終戦間際… 20年8月14日の午後に豊田市に投下された、”模擬原爆”=パンプキン爆弾を見に行くことです。

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 この爆弾は、豊田市(当時挙母町)にあるトヨタ自動車本社工場を狙って投下されたものだと言われています。 1発目が現トヨタ会館の南側(当時のトヨタさんの社宅があった所)、2発目が渡合町(現在の豊田ジャンクションから新東名に向かう途中の大きな橋の近く)の集落、そして3発目がトヨタ自動車の本社工場内に落ちました。 トヨタさんでは、午前中に戦闘機の襲撃があり、社員が皆避難していたため、犠牲者はいなかったとのこと。

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 こちらが2発目の破片。 民家の壁に突き刺さっていたものを、その民家の所有者が保管されていたもの。 触らせていただきました。 厚みが2インチくらいある鉄片です。 パンプキン爆弾は、長崎に投下された”ファットマン”と外形・重量が同じで、原爆投下時の航跡を調査するための”模擬原爆”として、国内の数カ所で投下されていました。 終戦直前の投下(米軍は、この日までに日本の降伏を把握)は、パンプキンの通常兵器としての性能を確認するためだったとも言われています。

 丁寧に説明していただいた豊田市の冨田さんによれば、当時の(B-29の空襲拠点となった)テニアン基地には原爆が無くなっていたので、アメリカ本土まで3発目・4発目を取りに行っていた最中だったとのこと。 もし戦争が長引いていれば、豊田市にも原爆が投下されていたかもしれないとのことです。

 確かに。 たとえば、呉工廠の空襲の際は兵器廠は爆撃しましたが、戦後活用できそうな造船ドック(大和のドック)は、そのまま手付かずで残していました。 じゃあ、日本の自動車工場は? 当時、日本に自動車工業が根付くとは(豊田 LEADERS 喜一郎さん以外)誰も思っておらず、アメリカにしてみれば全く利用価値のない工場でした。 本当に、豊田市が第3、あるいは第4の被爆地になっていたのかもしれません。

 皮肉なことに朝鮮戦争時には、アメリカは このトヨタ本社工場で生産されたトラックを最も多く購入して、戦後のトヨタさんの財政状況健全化に大貢献するのです。 戦後、ドッジ不況と労働争議により倒産寸前まで追い込まれていたトヨタですが、人員整理と経営陣の退陣を条件とした日銀の支援により倒産をかろうじて免れます。 その直後の25年6月25日に勃発した朝鮮戦争により情勢は一変。 日本を後方支援基地としたアメリカ軍のトラック大量注文により、一気に息を吹き返すのです。(この辺はTBSのドラマ「LEADERS」で詳しく説明されていますね。) 当初、アメリカの注文はディーゼルエンジン車を得意とする いすゞや日野が獲得するのではないかと言われていましたが、蓋を開けてみると 米軍は補給上の都合からガソリンエンジン搭載のトラックを希望。 偶然、ガソリンエンジンのトラックだけ造っていたトヨタさん(しかも大規模生産ラインが空いている←売れてなかったから)に白羽の矢が立つのです。 

 9月、当初500台の予定だった米軍特需は1000台に拡大、そのすべてをトヨタが総取りします。 10月末時点での特需は、トヨタ 3329台、日産 2915台、いすゞ 815台となりました。(以上 東洋経済新報より抜粋) まさに、アメリカ軍がトヨタ本社を完全に破壊しなかったことで、トヨタは米軍に救われるのです。

 その他、豊田市内にあった飛行場のこと、軍事施設のこと、それらの整備に動員されていた朝鮮人労働者のこと、機銃掃射で亡くなった少女のこと… 私よりも お年を召した皆さんが手作りされた資料が多く展示されていました。 ここにも努力して語りを繋いでいこうとする方が多くいらっしゃいました。 9条死守のコーナーもあって、少し


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かな?

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原爆ドームと原爆死没者慰霊碑 [八月が来るたびに]

広島バスセンターから徒歩3分。 

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自分は原爆ドームをまじかに見るのは初めてでした。

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すずと周作が出会った相生橋と原爆ドーム。 相生橋のT字の部分を渡ってドーム対岸の中州には平和記念公園が あります。

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原爆死没者慰霊碑から平和の灯越しにドームを眺む。 碑の中には碑文が。

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「過ちは繰返しませぬから」という この碑文には、特に右側の人から異論があるそうですが… 私はいい言葉だと思う。 平和も安全も自らの意志と行動によって得られるのだから。

記念公園から広島平和記念資料館と国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を見学します。 個人的に被爆者への医療支援がどうだったかが気にかかって、いろいろ調べます。 なお、両館とも資料室があり、関連文書を読むことが出来ます。 こうのさんの著作や劇場版の絵コンテ集も置いてあります。 私が小学校の時に、”怖い”と評判だった「八月が来るたびに」という本を見つけたので見てみると、あまりにもポップな挿絵にビックリ。 そして、その挿絵画家が”ゲージツ家のクマさん”こと篠原勝之さんだったので二度ビックリです。

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記念公園を後にして南へ向かうと、東と西の平和大橋が。 この東側の「TSUKURU(昇る太陽)」は、「夕凪の街 桜の国」でもお馴染みですね。

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その平和大橋は、北側(ドーム側)に歩行者専用橋をかけて車道を広げる予定だそうです。 さて、広島を後にしていったん山口に帰省。 実は山口にも原爆死没者を慰霊する碑があります。

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山口護国神社の近くに人知れずたたずむ”原爆死没者の碑”、49年に建立されました。 当時、山口県は原爆死没者が全国で3番目に多いとされていました。(現在は被爆された方が都会に移られたこともあり、東京・大阪・福岡のほうが多いらしい) 

この碑が建立された頃は”戦後30年”と言われていましたが、当時 小学生だった私には遥か昔の話に思えました。 今、30年前というと... 鈴鹿のF1が初めて開催された年。 当時は無敵だったウイリアムズ・ホンダの凱旋レースで盛り上がる予定が、マンセルはFPでクラッシュ→欠場。 ピケはずっとセナに抑え込まれてエンジンブロー。 フェラーリのメカニックが大笑いしてたっけ。 !! まるで、昨日のことのように覚えている。 大人の人にとっては、まさにそれくらいの時代感だったんですね。

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