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結びに代えて [はじめに]

 昨年の11月に初めて劇場版を見てからというもの、私の睡眠時間は減ってしまった。 四六時中この作品のことを、そして、その背景となる時代や地方のことについて いろいろと考え、そして調べなくてはいけないという衝動に駆られた。 その衝動は、原作のコミックスを読んだ後、さらに加速した。 とにかく、作中に作者があえて描かなかったことを何とか理解しようと考え、調べ、そしてまた考えた。 年表を整理し、仮説を組み立て、そしてその仮説の傍証をいろいろなメディアから探して回った。 そして1話1話、気に留めたことを書いて行った。 そうこうするうちに、あっという間に半年が過ぎていた。

 こんな作品は初めてだ。 たぶん、二度とこのような作品には出会わないだろう。 とりあえず、全話分の感想を書き留めることが出来た。 これでようやく落ち着いて夜眠ることが、出来るかな? この作品については、これまであまたの人が評論や感想を書いているので、自分は一番強く感じたことと、最後に気付いたことを書いて、とりあえずのまとめにしたいと思う。 


全編これ戦闘シーン

 この作品に対する一般的な評論として、「日常の中に戦争が忍び寄ってくる様を描いている」とか、「過酷な状況の中でも日々を大切に生きていく事の尊さを描いている」などのようなことを書いているのをよく見かける。 とにかく”日常”、”日常”と繰り返し言われているが、私は、この作品は全巻・全頁に渡って熾烈な戦いが描かれていると思う。

 ”戦い”といっても、私のような単純な男子、つまりはプラモの戦闘機を手に持って空中戦をやったり、池に浮かべた空母を爆竹で爆破したり、同級生に「特攻じゃぁー!!」と言って体当たりしていた、本当に馬鹿で単純な少年のなれの果てが想像するような戦いではない。 銃剣の代わりに包丁を、砲弾の代わりに薪を持っていた女たちの戦いなのだ。 

 彼女たちはインパールへの苛烈な山道を進む代わりに 炎天下の配給の列に並び、ジャングルを匍匐前進する代わりに 道端に這いつくばって食える草を探し回り、そして、砲弾の雨が降る塹壕の中で家族の手紙を握りしめながら故郷へ思いを巡らす代わりに 木の実の落ちるお背戸の向こうで栗の実を煮ながら 父さんの帰りを待つのだ。 そんな静かな女たちの激しい戦いが描かれているのだ。 そして、女たちの目的は鬼畜米英を倒すことでも、大東亜共栄圏の繁栄でもない。 ただただ、愛しい人を、愛おしい日々を再び取り戻すために戦っているのだ。 大戦中、女たちは ただ耐えていたのではなかった。 自らも傷つきながらも、必死で静かに生き延びるために戦っていたのだ。 この作品は、私にそんな当たり前のことを気付かせてくれたのだ。


ぼろぼろの題字に込められた願い

 ちょっと気づきにくいが、この作品のタイトルロゴと作者名はかすれている。 長い年月にさらされて朽ちていく様を表現しているのだろうか? そういえば劇場版のポスターのタイトルロゴも、製作準備段階の初期のものは字体がはっきりしているが、公開版のものは原作のようにかすれている。 これは、この時代を懸命に生きた人々の生の記憶も、誰かがバトンを継いで語り継いでいかなければ、いつか途絶えてしまうということを言いたいのだろうか?

 先ごろ(H29年5月19日)、岡ヨシエさんが亡くなられた。 岡(旧姓大倉)さんは、比治山高等女学校3年生の時(中学3年相当で当時14歳)に、挺身隊として広島城本丸にあった中国軍管区司令部に配属され、そして原爆に遭われた。 投下時、地下壕の通信室に居た岡さんは広島の惨状を確認すると、すぐさま福山の部隊に「広島が全滅です」という一報を入れた。 これが広島の原爆投下を伝えた第一報であると言われている。 岡さんは、屋外にいた旧友の救助に当たったが多くが直撃で即死しており、息のある者も重傷の火傷を負って虫の息であったという。 この救助活動時に岡さん自身も被爆され、長く原爆症に苦しめられたそうだが、約30年前より語り部として自身の体験や、重い火傷を負いながらも「仕事に行かせて下さい」と懇願しながら死んでいった誇り高い旧友のことを多くの人に語られたという。 

 いま、岡さんのような戦災の語り部の方の高齢化が進み、その数はどんどん少なくなっていっているという。 そういえば、径子役の尾身美詞さんが「その頬 熱線に焼かれ」という舞台の準備で元”原爆乙女”の方たちと会われたときにも、「自分たちの命には限りがある、自分たちが生きているうちに(その劇を)早くやって」と懇願されたという。 この作品のかすれた題字には、誰かが語り継がないと この時代を生きた人々の貴重な記憶が本当に無くなってしまうというメッセージを込めているのかもしれない。 劇場版のタイトルもかすれているが、色だけはみずみずしい菫色になっている。 これは映画という形にしたことで、しばらくは後世に伝えるための余力を与えましたよという意味が込められているのかな?

 このかすれた題字の意味を悶々と考えている時に、H29年5月に愛知県で開催された「花森安治の仕事」巡回展に行き、先に説明した「暮らしの手帖 96号」、戦争体験特集号の序文にあたる「この日の後に生まれてくる人に」という文章に出合った。 ああ、そうか! この文章に書いてあることこそ、かすれて”ぼろぼろ”になった題字の意味であり、作者から ”この世界のあちこちのわたし” たちに託された、祈りにも似た願いなんだなぁと、一人で納得したのである。 

 

 最後に、その「この日の後に生まれてくる人に」の一部を引用させていただき、このつたないブログの当面の締めくくりとさせていただきたい。


 ”いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。 君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。

 しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。 それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。

 できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。 これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである。”


(了)

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お約束 [はじめに]

 「この世界の片隅に」は、作者が入念な下調べをしたうえで細かな造りこみをしているにもかかわらず、重要な事実があえて伏せられているので、いかようにも読み解ける。 さらに話をややこしくしているのが、物語のあちらこちらに出てくる”妖怪さん”たちだ。 これによりファンタジーの可能性まで加わり、さらに物語は複雑になる。 この物語自体が少女の母が死ぬ間際に見た夢だとおっしゃる方もいる。 あの母親は、水原と結ばれる道を選んだすずさんで、娘が幸せになる道を”水原を選ばなかったもう一人のすず”に託しているのだと。 私はこの話を聞いた時にとても恐ろしくなった。 反証が出来ないからである。 かようにいく通りもの読み解き方が出来る本作だが、私は素直に読んでいこうと思う。 

  ”すずさんたちの物語は架空だが、すずさんたちが懸命に生きた世界は、
                     きっと我々のこの世界につながっている。”

 これが最低限のルールだ。 そして、今容易に手に入る、上・中・下巻の中に書いてある情報だけを正とする。 何も、作品の奥深くに隠されたメッセージを新たな解釈で読み解いたりするわけではない。 作品の世界と私が今まで知っていた史実とか情報とかを、そして新たに勉強した事柄を一話ずつ整理してみて、当時の雰囲気や、作中の何気ないセリフの意味を今一度、一話一話見直してみようと思うのだ。 あくまでも自分の理解のために。 個人的な備忘録です。 ですから、間違った思い込みや、逆に正しいことの見逃しも多々あると思います。 もちろん、盛大にネタバレしていますので注意。

 個人のものをなんで公開のブログに残すのかというと、この作品をきっかけに当時のことをもっと知りたいと思った人たちが、あるいは作中の人物の気持ちや行動の奥底にあるものをもっと考えてみたいと思った人たちが、「お、ここにこんなことをやってる奴がおる、よし、俺は(私は)もっと利口なやり方を考えよう」と思ってくれる人が一人でもいれば、それはこの作品への恩返しになるのじゃないかと思ったからです。 あ、そのような方には、劇場版HPの年表をもとに自分なりの年表を作られることをお勧めします。 さすが、公式! 片渕組! 時代背景をよくわかったうえで年表を作られています。 自分もまずは、My年表つくりに励んでいます。

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はじめに [はじめに]

 漫画「この世界の片隅に」は不思議な作品である。 昭和18年暮れから21年初頭までの物語を、平成18年暮れから21年初頭にかけて連載するという、狂気にも似た着想により企図されたこの作品は、しかし、作者の周到な準備と多くの人達の協力、決して多くはないが熱心なファンの後押し、そしていくつかの幸運な偶然に恵まれて見事完結した。

 2016年... この漫画の手法に従えば、28年11月(2回目)に公開された劇場版アニメーションへの論評調に表現するなら、”大戦末期に広島から呉に18歳で嫁いだ少女が、大切なものを次々に失いながらも懸命に日々を生きる”姿が多くのファンの共感と感動を呼び、その中の一人であった有能な映画監督は劇場版の製作許諾を受けると、興業化の目途が全く立っていないにもかかわらず、その持てる才能と労力を惜しみなく作品の完成のために費やした。 何度も何度も作品の舞台に通う中で、次第に協力者の輪は焔のように広がって行き、多くの支援者の後押しを得て遂に作品が完成すると、様々な制約で大々的な宣伝が打てないにもかかわらず、作品に接した人々の口伝により、さらに多くのファンを獲得していった。
 この劇場版の成立過程を振り返るだけでも、一遍の優れた物語を見ているようである。 もはやこの作品は、当初の作者の企図の想定の範囲を超え、あたかも自らの意志を持って一人歩きをしているようでもある。
 
 さて、アニメーション作品の原作としてではなく、純粋に漫画作品としてこの物語を見返してみると、その魅力は決して愛おしい登場人物や、その物語性だけではなく、あるいは作品全体を貫く静かだが骨太なテーマだけでもない。 およそ考えられる、ありとあらゆる漫画メディアの表現手法が駆使され、物語世界が何重にも肉付けされているのに気付くのだ。 この漫画は、これまで世に出てきた戦記物と比較して、いや、それ以外の時代物や一般的で普遍的な作品と比較しても、かなり特異な、下記のような特徴を持っている。 それは、

 ①(先述したが)ありとあらゆる手法を用いた漫画的表現手法の探求
 ②ステレオタイプの戦時描写の徹底的な排除
 ③冷酷なほどの傍観者目線
 ④作品世界や時代背景にとっての重要な情報の意図的な隠ぺい

である。 これらの特徴により、この作品の印象は読み手の器量によって、かなり左右されるはずである。

 ①の表現手法の多様性は、単に筆記具の変更や作者の利き手ではない左手での背景描写にとどまらず、作中人物が描いた絵と作品世界の融合と反転、漫画の主要な構成要素であるコマやコマ割りの代用・借用など、枚挙にいとまがない。 遂には、人ならざるものにより本編とは平行に別の物語が語られはじめ、最終話に至っては、その人ならざるものの手によって作品全体の幕引きが図られるのだ。 しかし、これら多彩な表現手法が使われるからと言って、決して作品の世界観は統一性をなくしてはいない。 むしろ作者がこれほどの労力や工夫をこの作品に注ぐのには、何らかの必然があるからだと信じてしまう凄味が、そこにはあるのだ。 

 ②のステレオタイプの排除は、この作品ではお馴染みの「赤紙」は出て来ないし、日の丸を振っての出征祝いもない。(一度やりかけたが、巧みに回避している) 庶民は「大本営発表のラジオ放送」は聞かないし、隣組や婦人会は「贅沢は敵だ!」などと民衆を縛ったりはせず、いつまでも心優しい人ばかりである。 「非国民!」と市民を恫喝する憲兵はとんでもない勘違いをして笑いの種になる。 これは、「死者の数で悲しみの重さをはかるような戦記物は書かない」という作者の制作姿勢と同じところから来ているのだろうか。

 ③の傍観者目線には異論のある人もいるかもしれない。 実際、主人公は米軍機の機銃掃射にはさらされるわ、時限式爆弾の爆発には巻き込まれるわ、焼夷弾とは格闘するわで結構な災難に見舞われている。 劇場版を含め、この作品の感想に「空襲の恐ろしさが良くわかった」というものも目にする。 だが、それでもすずや主要登場人物は本当の空襲の阿鼻叫喚の中には居ない。 高台の上に置かれた北條家から、街が燃えていくのをただただ眺めているだけである。 8月6日には西方から立ち上る不気味な雲をただ不安げに見ているだけなのである。 これは、戦争経験のない、または戦争経験者からの体験談も聞いたことがない、この作品の多くの読者と同じ目線なのだ。 だから、その時何が起こったのか知ろうとしなければ、この作品を読むだけでは本当の恐怖を知らなくて済む仕掛けになっている。 これは作者の優しさでもあり、厳しさでもあると私は思う。

 ④の事実の隠ぺいは、この作品の最大の特徴だ。 すずに縁談が持ち上がった18年暮れ、既に日本は敗戦への道を真っ逆さまに転げ落ちている。 食料や物資・労働力の供給もままならない時代だが、そのような時代背景や戦局の説明は一切ない。 ”市井の片隅にいるボーっとした一主婦”の目からでも明らかに分かる事実も説明されない。 また、登場人物の身近な人たちも、説明のないまま いつの間にか忽然と無くなる。 これらの情報隠ぺいは、事実や事象にとどまらない。 登場人物たちのある種の感情も消されている。 主人公は日々、代用食の研究にいそしむが、実際は生理も止るほどの極度の栄養失調とストレスにさらされている。 だが、この作品の大人たちは決して”ひもじい”とは言わない。 大切なものを失っても”悲しい”と言わない。 理不尽の元凶である戦争に対しても”早く終われ”と言わない。 それどころか、この作品の登場人物たちの中では、戦争は未来永劫に存在し続けるものと規定されているかのようだ。 実際、主人公の作品後半の目標は、なんとしても生き抜いて、”自分の順番が来るのを待つ”ことなのだ。

 これらの特徴を持つ本作は、それゆえに(繰り返しになるが…)読み手側の知識と感性と想像力を試す作品になっている。 ほんわかした笑いの後に挟まれた何気ない一言に、何気ないカットに、底知れぬ恐怖や不安を覚える人もいるだろうし、ああ面白い作品だったねと気付かずに読み流す人もいるだろう。 あえて描かないことによって浮かび上がる真実もあるのだ。

 「このオチのない物語は、三五頁で貴方の心に湧いたものによって、はじめて完結するものです。 これから貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。 そう描けていればいいと思っています。」 これは、作者がさきに描いた「夕凪の街 桜の国」のあとがきの言葉である。 この懇願にも似た思いは、本作にも言えることだろう。

 この作品は、本当に、何度読み返しても新しい発見がある。 プロローグに当たる3作の時点で、既に作品の根幹にかかわる多くのキーが散りばめられているのが分かる。 それは、伏線とか裏設定とかの陳腐な言葉で表されるものではなく、作中の人物に生を与えるために本当に必要な仕事だったんだとあらためて思う。 最近、歴史の本を買って来て、この作品の時代をあらためて勉強してみることにした。 自分は今、50代半ばになろうとしていて、もちろん戦争体験はないし、よく知る親戚には戦没者はいない。 親から聞いた戦中戦後の話は、”とにかく貧しかった”ということしか記憶に残っていない。 それでも、マイファースト朝ドラは「鳩子の海」だし、やたらと戦争を描いたドラマや映画は自然と見て来たし、「はだしのゲン」どストライク世代だ。 「二人のイーダ」も学校に来ていたかもしれない。 吉本では戦場シリーズは定番ものだったし、小学校の図書館で何度も見た本は「ゼロ戦と戦艦大和」だった。 復刊ドットコムでは「切り抜く絵本 世界の戦闘機」をリクエストしているし、成人してからは光人社NF文庫や(奇しくも本作と同出版元の)3Dシリーズを何冊も買った... それでも、意外と知らないことが多かった。

 「人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる」「それはそれでゼイタクな事かも知れんよ」 これはリンのセリフだが、どうも作者もこう思ってはいやしまいか? 自分がやれる事はすべて作品に託した。 それで分ってもらえないのなら、仕方ないと... それはちょっと嫌だ、それだけは本当に、これだけの作品を世に出してくれた作者に申し訳ない。 わしは”知らんまま死ぬわけにはいかん!!”

 ということで、前置きが壮大に饒舌に長くなりましたが、これがこのブログを立ち上げたわけです。 この素晴らしい作品を前に、作者の伝えたかったこと、この作品の時代そのものを少しでも多く読み解くために、また自分の頭の中をもう一度整理するために、一話ずつ気になったことを書き留めていきます。 あくまでも個人的な理解のための備忘録です。 

 以下に読み解くための基本的なお約束事を書いていきます。 
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