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上巻 と 冬の記憶 [上巻]

コミックス上巻 '08年(H20年)2月12日 第1刷発行 (発売日 同年1月12日ころ)

わたしは誰?

 パステルカラーで台所にたたずむすずが描かれた表紙カバー。 よく見ると、やたらにバケツが多い。 水道のない当時としては、これが当たり前なのか? それとも、空襲対策の暗示か? 裏表紙の折り返し部分に、コクバ(焚きつけ)の入ったカゴが。 え、椿が入ってる? 入ってないか。

 カバーをめくると、幼いすずと当時の海苔生産のための道具が描かれている。 海苔は本作の重要なアイテムだ。 鶏と卵とひよこも描かれているが、本編にどこか出てたっけ? あ、11ページのセリフに出てる。 表紙をめくると巻頭言、「この世界のあちこちのわたしへ」。 

 ”わたし”とは誰のことか? 祖母の戦争体験を真面目に聞いてこなかった作者自身のことか? それとも、”すず”や”右手の思い出”なのか? いずれにせよ、最終話に右手によって記される”しあはせの手紙”と対になっているようである。

 2・3ページ目には「波のうさぎ」の掲載時のカラー扉が挿入されている。


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「冬の記憶」 掲載 月刊まんがタウン06年(H18年)2月号 (発売日 同年1月5日ころ)

なぜ「まんがタウン」?

 すずと周作の幼い出会いが描かれた本作。 掲載時は年号表示はないが、のちに9年1月のこととされた。 注目すべきは、掲載誌が「漫画アクション」ではなく、「まんがタウン」であること。 同誌は、もともとの誌名が「漫画アクションファミリー増刊『クレヨンしんちゃん特集号』」で、文字通り、国民的漫画となっていた「クレヨンしんちゃん」をより抜きした増刊号であった。 これが、20世紀末に既に週刊漫画誌としての寿命を終えつつあったアクション本誌から、「しんちゃん」他ファミリー向けの作品を移籍させ、2000年(H12年)11月に新創刊されたものだ。 ちなみに「しんちゃん」を失ったアクション本誌が仕掛けた路線が”エロ本化”である。

 艶々や紺条夏生といった実力派漫画家を擁し、美少女誌顔負けの性表現を展開したが敢え無く沈没。 週刊漫画アクションは平成15年9月30日号で休刊する。 この手の雑誌の休刊はすなわち廃刊を意味するが、本誌はそうではなかったようだ。 なお、この週刊最終号には、こうの先生の「夕凪の街」が掲載されている! 「このお話はまだ終わりません」で結ばれるこの作品を週刊最終号に持ってきたのは、アクション編集部の意地か? 翌平成16年の4月に「漫画アクション」は月2回刊の様式に変更して堂々の復刊を遂げる。 

 まさかの復刊、そしてまさか今日まで継続するとは、当時誰が思ったであろうか。 復刊4か月後の8月6日号(7月20日発売)に、「夕凪の街」の続編「桜の国(1)」が掲載。 「桜の国(2)」の描き下ろしを加えた単行本、「夕凪の街 桜の国」は同年10月12日に発売。 「この世界の片隅に」連載開始の2年3か月前のことだ。 「夕凪の街 桜の国」は大きな反響を呼び、朝日新聞やしんぶん赤旗に目を付けられたことで... 取り上げられたことで、こうの史代という作家が大きく世に知られることとなる。  

 話を本編に戻すと、「冬の記憶」は、まんがタウンに載ってても全く違和感がない。 昭和レトロファンタジーと誰もが思うだろう。 これがのちの壮大な物語につながるとは、当時誰が予期できたものか。 実際、私は本作の連載に至るまでの話を知らないので(どこかで発表済かもしれませんが…)、これが、単発のファンタジーだったのか、それとも壮大な構想を終えてのパイロット版としての掲載であったのか、非常に興味がつきない。

海苔は本編に共通する絆アイテム

 ばけもんにさらわれたすずと周作。 すずの機転で救われるが、ここで使われたのが江波の海苔。 周作がすずの苗字を知ったのも、浦野と書かれた海苔缶のおかげ。(住所はどこで知ったんだろう? ふたばに聞きに行ったのか?) この作品では海苔が大変重要な役割を担っています。 映画のコラボ商品に広島海苔があるのも納得。

すずにとっては化け物ではない

 この作品全体を通して考える時、「ばけもん」がなぜいるのか?は避けては通れない難問である。 もともとファンタジーで出ちゃったのが、戦記物をやるように路線変更になっちゃったから、いわば黒歴史を洒落で最後も使ったのだ…というと、あまりにも夢がない。 むしろ、この作品はクライマックスでかなり辛いことが起きるので、読者(そして作者自身も)の気が滅入らないように、”これはあくまでも架空のお話なんですよ”と知らせるための、いわば心の安全弁として置かれていると、私は信じたい。 
 
 ところで、このばけもん、すずからすればただの黒い服を着たオッサンとしか認識されてないようである。 全身毛むくじゃらで牙も鋭い爪も描かれているのにである。(実際、周作には化け物に見えている) これは、のちに右手によって描かれる、ばけもんの正体からくるものであろうか? それともすずがぼーっとしてるだけのことか。

いつの回想か?

 この回はすずの回想であることになっている。 では、すずのいつの時点での回想か? これはこの物語を読み解く上での一つの大きなカギではないか? 成人してからか? 結婚後、周作と出会いを思い出したときか?(すずのことだから何時になるかはわからないが) それとも、もっともっと晩年か?

 一見、平和で豊かな時代に思えるが、この前年、8年3月に日本の満州支配を認めない国際世論に抗して、日本は国際連盟を脱退している。 時代は戦争に向かって一気に加速し始めている。


なお、この回は劇場版では8年12月のことと改変されてる。 サンタが出るからね。
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お約束 [はじめに]

 「この世界の片隅に」は、作者が入念な下調べをしたうえで細かな造りこみをしているにもかかわらず、重要な事実があえて伏せられているので、いかようにも読み解ける。 さらに話をややこしくしているのが、物語のあちらこちらに出てくる”妖怪さん”たちだ。 これによりファンタジーの可能性まで加わり、さらに物語は複雑になる。 この物語自体が少女の母が死ぬ間際に見た夢だとおっしゃる方もいる。 あの母親は、水原と結ばれる道を選んだすずさんで、娘が幸せになる道を”水原を選ばなかったもう一人のすず”に託しているのだと。 私はこの話を聞いた時にとても恐ろしくなった。 反証が出来ないからである。 かようにいく通りもの読み解き方が出来る本作だが、私は素直に読んでいこうと思う。 

  ”すずさんたちの物語は架空だが、すずさんたちが懸命に生きた世界は、
                     きっと我々のこの世界につながっている。”

 これが最低限のルールだ。 そして、今容易に手に入る、上・中・下巻の中に書いてある情報だけを正とする。 何も、作品の奥深くに隠されたメッセージを新たな解釈で読み解いたりするわけではない。 作品の世界と私が今まで知っていた史実とか情報とかを、そして新たに勉強した事柄を一話ずつ整理してみて、当時の雰囲気や、作中の何気ないセリフの意味を今一度、一話一話見直してみようと思うのだ。 あくまでも自分の理解のために。 個人的な備忘録です。 ですから、間違った思い込みや、逆に正しいことの見逃しも多々あると思います。 もちろん、盛大にネタバレしていますので注意。

 個人のものをなんで公開のブログに残すのかというと、この作品をきっかけに当時のことをもっと知りたいと思った人たちが、あるいは作中の人物の気持ちや行動の奥底にあるものをもっと考えてみたいと思った人たちが、「お、ここにこんなことをやってる奴がおる、よし、俺は(私は)もっと利口なやり方を考えよう」と思ってくれる人が一人でもいれば、それはこの作品への恩返しになるのじゃないかと思ったからです。 あ、そのような方には、劇場版HPの年表をもとに自分なりの年表を作られることをお勧めします。 さすが、公式! 片渕組! 時代背景をよくわかったうえで年表を作られています。 自分もまずは、My年表つくりに励んでいます。

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はじめに [はじめに]

 漫画「この世界の片隅に」は不思議な作品である。 昭和18年暮れから21年初頭までの物語を、平成18年暮れから21年初頭にかけて連載するという、狂気にも似た着想により企図されたこの作品は、しかし、作者の周到な準備と多くの人達の協力、決して多くはないが熱心なファンの後押し、そしていくつかの幸運な偶然に恵まれて見事完結した。

 2016年... この漫画の手法に従えば、28年11月(2回目)に公開された劇場版アニメーションへの論評調に表現するなら、”大戦末期に広島から呉に18歳で嫁いだ少女が、大切なものを次々に失いながらも懸命に日々を生きる”姿が多くのファンの共感と感動を呼び、その中の一人であった有能な映画監督は劇場版の製作許諾を受けると、興業化の目途が全く立っていないにもかかわらず、その持てる才能と労力を惜しみなく作品の完成のために費やした。 何度も何度も作品の舞台に通う中で、次第に協力者の輪は焔のように広がって行き、多くの支援者の後押しを得て遂に作品が完成すると、様々な制約で大々的な宣伝が打てないにもかかわらず、作品に接した人々の口伝により、さらに多くのファンを獲得していった。
 この劇場版の成立過程を振り返るだけでも、一遍の優れた物語を見ているようである。 もはやこの作品は、当初の作者の企図の想定の範囲を超え、あたかも自らの意志を持って一人歩きをしているようでもある。
 
 さて、アニメーション作品の原作としてではなく、純粋に漫画作品としてこの物語を見返してみると、その魅力は決して愛おしい登場人物や、その物語性だけではなく、あるいは作品全体を貫く静かだが骨太なテーマだけでもない。 およそ考えられる、ありとあらゆる漫画メディアの表現手法が駆使され、物語世界が何重にも肉付けされているのに気付くのだ。 この漫画は、これまで世に出てきた戦記物と比較して、いや、それ以外の時代物や一般的で普遍的な作品と比較しても、かなり特異な、下記のような特徴を持っている。 それは、

 ①(先述したが)ありとあらゆる手法を用いた漫画的表現手法の探求
 ②ステレオタイプの戦時描写の徹底的な排除
 ③冷酷なほどの傍観者目線
 ④作品世界や時代背景にとっての重要な情報の意図的な隠ぺい

である。 これらの特徴により、この作品の印象は読み手の器量によって、かなり左右されるはずである。

 ①の表現手法の多様性は、単に筆記具の変更や作者の利き手ではない左手での背景描写にとどまらず、作中人物が描いた絵と作品世界の融合と反転、漫画の主要な構成要素であるコマやコマ割りの代用・借用など、枚挙にいとまがない。 遂には、人ならざるものにより本編とは平行に別の物語が語られはじめ、最終話に至っては、その人ならざるものの手によって作品全体の幕引きが図られるのだ。 しかし、これら多彩な表現手法が使われるからと言って、決して作品の世界観は統一性をなくしてはいない。 むしろ作者がこれほどの労力や工夫をこの作品に注ぐのには、何らかの必然があるからだと信じてしまう凄味が、そこにはあるのだ。 

 ②のステレオタイプの排除は、この作品ではお馴染みの「赤紙」は出て来ないし、日の丸を振っての出征祝いもない。(一度やりかけたが、巧みに回避している) 庶民は「大本営発表のラジオ放送」は聞かないし、隣組や婦人会は「贅沢は敵だ!」などと民衆を縛ったりはせず、いつまでも心優しい人ばかりである。 「非国民!」と市民を恫喝する憲兵はとんでもない勘違いをして笑いの種になる。 これは、「死者の数で悲しみの重さをはかるような戦記物は書かない」という作者の制作姿勢と同じところから来ているのだろうか。

 ③の傍観者目線には異論のある人もいるかもしれない。 実際、主人公は米軍機の機銃掃射にはさらされるわ、時限式爆弾の爆発には巻き込まれるわ、焼夷弾とは格闘するわで結構な災難に見舞われている。 劇場版を含め、この作品の感想に「空襲の恐ろしさが良くわかった」というものも目にする。 だが、それでもすずや主要登場人物は本当の空襲の阿鼻叫喚の中には居ない。 高台の上に置かれた北條家から、街が燃えていくのをただただ眺めているだけである。 8月6日には西方から立ち上る不気味な雲をただ不安げに見ているだけなのである。 これは、戦争経験のない、または戦争経験者からの体験談も聞いたことがない、この作品の多くの読者と同じ目線なのだ。 だから、その時何が起こったのか知ろうとしなければ、この作品を読むだけでは本当の恐怖を知らなくて済む仕掛けになっている。 これは作者の優しさでもあり、厳しさでもあると私は思う。

 ④の事実の隠ぺいは、この作品の最大の特徴だ。 すずに縁談が持ち上がった18年暮れ、既に日本は敗戦への道を真っ逆さまに転げ落ちている。 食料や物資・労働力の供給もままならない時代だが、そのような時代背景や戦局の説明は一切ない。 ”市井の片隅にいるボーっとした一主婦”の目からでも明らかに分かる事実も説明されない。 また、登場人物の身近な人たちも、説明のないまま いつの間にか忽然と無くなる。 これらの情報隠ぺいは、事実や事象にとどまらない。 登場人物たちのある種の感情も消されている。 主人公は日々、代用食の研究にいそしむが、実際は生理も止るほどの極度の栄養失調とストレスにさらされている。 だが、この作品の大人たちは決して”ひもじい”とは言わない。 大切なものを失っても”悲しい”と言わない。 理不尽の元凶である戦争に対しても”早く終われ”と言わない。 それどころか、この作品の登場人物たちの中では、戦争は未来永劫に存在し続けるものと規定されているかのようだ。 実際、主人公の作品後半の目標は、なんとしても生き抜いて、”自分の順番が来るのを待つ”ことなのだ。

 これらの特徴を持つ本作は、それゆえに(繰り返しになるが…)読み手側の知識と感性と想像力を試す作品になっている。 ほんわかした笑いの後に挟まれた何気ない一言に、何気ないカットに、底知れぬ恐怖や不安を覚える人もいるだろうし、ああ面白い作品だったねと気付かずに読み流す人もいるだろう。 あえて描かないことによって浮かび上がる真実もあるのだ。

 「このオチのない物語は、三五頁で貴方の心に湧いたものによって、はじめて完結するものです。 これから貴方が豊かな人生を重ねるにつれ、この物語は激しい結末を与えられるのだと思います。 そう描けていればいいと思っています。」 これは、作者がさきに描いた「夕凪の街 桜の国」のあとがきの言葉である。 この懇願にも似た思いは、本作にも言えることだろう。

 この作品は、本当に、何度読み返しても新しい発見がある。 プロローグに当たる3作の時点で、既に作品の根幹にかかわる多くのキーが散りばめられているのが分かる。 それは、伏線とか裏設定とかの陳腐な言葉で表されるものではなく、作中の人物に生を与えるために本当に必要な仕事だったんだとあらためて思う。 最近、歴史の本を買って来て、この作品の時代をあらためて勉強してみることにした。 自分は今、50代半ばになろうとしていて、もちろん戦争体験はないし、よく知る親戚には戦没者はいない。 親から聞いた戦中戦後の話は、”とにかく貧しかった”ということしか記憶に残っていない。 それでも、マイファースト朝ドラは「鳩子の海」だし、やたらと戦争を描いたドラマや映画は自然と見て来たし、「はだしのゲン」どストライク世代だ。 「二人のイーダ」も学校に来ていたかもしれない。 吉本では戦場シリーズは定番ものだったし、小学校の図書館で何度も見た本は「ゼロ戦と戦艦大和」だった。 復刊ドットコムでは「切り抜く絵本 世界の戦闘機」をリクエストしているし、成人してからは光人社NF文庫や(奇しくも本作と同出版元の)3Dシリーズを何冊も買った... それでも、意外と知らないことが多かった。

 「人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる」「それはそれでゼイタクな事かも知れんよ」 これはリンのセリフだが、どうも作者もこう思ってはいやしまいか? 自分がやれる事はすべて作品に託した。 それで分ってもらえないのなら、仕方ないと... それはちょっと嫌だ、それだけは本当に、これだけの作品を世に出してくれた作者に申し訳ない。 わしは”知らんまま死ぬわけにはいかん!!”

 ということで、前置きが壮大に饒舌に長くなりましたが、これがこのブログを立ち上げたわけです。 この素晴らしい作品を前に、作者の伝えたかったこと、この作品の時代そのものを少しでも多く読み解くために、また自分の頭の中をもう一度整理するために、一話ずつ気になったことを書き留めていきます。 あくまでも個人的な理解のための備忘録です。 

 以下に読み解くための基本的なお約束事を書いていきます。 
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