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第42回 晴れそめの径(20年11月) [下巻]

「第42回 晴れそめの径(20年11月)」 掲載’08年(H20年)12月16日号 (発売日 同年 12月2日ころ)

晴れそめって?

 サブタイトルに聞き慣れない”晴れそめ”という言葉が。 初め? 染め? 広辞苑で調べると、「晴れ始める」こととある。 つまりは ”晴れ初め”ということ。 オープニングタイトルページで、径子が歩く道の後ろの塀は戸板が外れている。 これは”あの道”の暗示。 今回は径子が戦後を歩き始めたという話だ。 そういえば、今回の径子はいつもより凛々しく描かれているような気がする。 いや、径子は日ごろから身だしなみをきちんとしているので、いつもこのような出で立ちであるはずだが、何か心の中のけじめがあったような感じが。

 11月といえば、本来は晴美の七五三があったはず。 なにかの行事をしたのか? あるいは… 納骨を済ませたのか? 

みぎての暴走

 それにしても、いよいよ みぎてがやりたい放題である。 進駐軍のジープの轍に沿って、径子の歩みに沿って、径子の半生はおろか 手当たり次第に描きまくっている。 まるで、自分が何者かを必死で探しているかのように。

知多さんの行くみち

 買い出しに行く途中に出合った知多さんにも原爆症の症状が出ている。 まぶしいと言っているので原爆性白内障の疑いもあるが、入市被爆された方の中には白内障の症状が出ていなくても、強い日光に当たるだけで気分が悪くなる方もおられるとのことだ。

 知多さんや小林の伯父さんのように被災者の救援や近親者の捜索で爆心地に入られた方への支援は、実は遅々として進まなかった。 原爆投下直後の調査研究は軍部が中心だった。 米軍も22年3月にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)を組織したが、純粋に(軍事的な)研究を目的としており、その知見が被爆者の救済に振り向けられることはなかった。 被爆後数年は、(先に亡くなられた)肥田舜太郎医師のような個人的な支援活動が主だったのである。

 各地に支援団体が結成され始めるのは27年ころからで、28年1月にようやく広島市原爆被爆者治療対策協議会(原対協)が結成され、被爆者への体系的な支援活動が広がるのだ。 国の支援が始まるのはさらに後となり、32年4月に原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳、いわゆる原爆手帳が発行され始める。 この原爆手帳を持っている人は治療や健康診断の”現物支給”を受けることが出来た。 被爆者の医療費自己負担分無料化が始まるのは35年8月からで、じつに原爆投下から15年も経過しているのだ。 しかし、その医療費無料化の恩恵を受けられるのも爆心地から2km以内で被爆したと認定された人に限られ、知多さんたち入市被爆された方への支援はさらにさらに後になるのだ。 今の我々の感覚からすると、なんと遅いことか! さらに絶望的なことを言うと、入市被爆された方の中には現在もなお申請が認められない方が多くいるのだ。

 自身も体調不良なのに すずの体を案じてくれる知多さん。 彼女の待ち人が一日も早く帰ってくることを切に願う。 知多さんはこの回が最後の登場となる。

原爆乙女と径子

 このように被爆者への支援が進まなかった背景には、被爆地以外の人々の関心の低さと正確な知識の欠如(=誤解)があったと思われる。 「夕凪の街」で、主人公 皆実の弟 旭が疎開先から広島へ帰ることを拒否したのも、この誤解があったからだと思われる。 このような一般の人々が被爆地への関心を持つようになる出来事が30年にあった。 原爆によって顔などに ひどい火傷を負った25名の女性が治療のために渡米したのである。 いわゆる原爆乙女の人たちだ。 彼女たちは30年5月にボランティア団体の支援で渡米し、治療の傍らアメリカのメディアに原爆の被害の実情を訴え続けた。 

 劇場版で径子を演じられた尾身美詞(おみみのり)さんは、女性演劇集団 On7のメンバーとして、原爆乙女を題材にした「その頬 熱線に焼かれ」(H27年9月)という演劇に出演された。 役作りのために他のメンバーと存命の元乙女の方たちと話し合いをされた尾身さんは、その重いテーマにどう演じてよいか迷われていたそうだが、元乙女の方たちから「演劇だから出来ることがある」「自分たちが語る以上の可能性があるかもしれない、自分たちの命があるうちに、今やって欲しい」と励まされ、舞台に立ったそうだ。 

 原作者のこうの先生は、劇場版公開後、”径子が良かった”という読者が増えたと感じておられるそうだが、それは尾身さんの魂のこもった演技の賜物だろう。

みぎてって何者?

 私は、みぎては すずの失われた右手を憑代として、この大戦で亡くなった すずの近親者(おかあちゃん、リン、テル、晴美)の魂か記憶が宿ったものだと思っていた。 だが、今回のみぎては径子と旦那さん(劇場版では”キンヤ”)の馴れ初めなど、晴美が知らない情報を描いている。 まだ、1ページ目では息子さんの消息を伝える手紙を読む刈谷さんも描いている。(刈谷さんの息子さんはお母さんが手紙を読んだかどうかは知らないはず) つまり、みぎては存命中の人の記憶をも描いているのだ。 みぎてはいったい何者なのだろう?

 すずには、幼いころより 場所やモノに刻まれた、人々の強烈な記憶を感じ取る力があったのではないか? だから、ばけもんや座敷童子と遭遇するのだ。 みぎてには記憶はないが、すずの人の記憶のかけらを感じ取る能力と、そして絵を描くという本能が引き継がれているのだ。 みぎては自分が何者か?を探すために、呉市中に散らばっている すずに近しい人々の記憶のかけらを追いかけては 片っぱしから描いているのではなかろうか? まあ、最終回には自分の意志を持っちゃってますけど。 

たんぽぽ

 径子の一家が離散する場面で晴美がたんぽぽを持っている。 たんぽぽには綿毛が飛び立つことより「別離」という花言葉があり、作者は別れのシーンのアイコンとして、この花を多用している。

座敷童子さんのパラドックス

 径子と旦那さんの馴れ初めのシーンの下に、貼り紙が落ちている。 「國防と産業 大博覧會」の開催時期を伝える作者注だ。 私、これ読み飛ばしてましたが、実はとんでもないことが書いてある。 同博覧会の開催時期が10年春というのだ。 径子と旦那さんの横には、やがてリンとなる少女の姿も描いてあるが、つまり、リンは10年の春には呉に流れ着いて朝日町に行っていることになる。 10年8月のこととされる「大潮の頃」に草津に居るはずがないのだ。 前回、きれいにまとまったはずのリンの半生が、音を立てて崩れ落ちていく。 これはどういうことか?

 一つ目の仮説は、作者がミスをごまかした説。 取材メモの混乱かなんかで、時期的な間違いがあるのに気付いたけど、こっちの方が謎を呼んで話が面白くなりそうだったので そのままにしたという説だ。 しかし、これには無理がある気がする。 「國防と産業 大博覧會」の会期が10年3月27日から5月10日までというのは、ちょっと調べればすぐわかるのだ。 作者も取材に訪れた”大和ミュージアム”の呉市のコーナーには、同博覧会の実物のポスターやパンフレットが展示してあり、会期は一目瞭然なのだ。 また、リンが同博覧会の時に呉に行ったというのは、ラスト5話の時点で初めて出てくるエピソードだ。 詳細な作品年表を作っているとされる作者が、このような単純ミスをすることは考えにくい。

 次の説は、すずが思い違いをしているという説。 第27回の時にも書いたが、これが一番わかりやすい。 一般の方から寄せられた戦災体験を読むと、私たちが知っている”史実”と異なることを書いている方が多くいる。 それは、当時の日記をもとに体験記を書いている人を除けば、多くの人は はるか昔の記憶を紐解いているため、事実の混乱や記憶間違いが多々あるのは仕方のないことだ。 これには月日の間違いや前後関係の逆転などがある。 また、最初から間違って覚えている場合もある。 体験記を残す人の多くは当時未成年で、特に軍事関係のことは周りの大人から聞かされたことを受け売りで覚えている場合が多い。 11航空廠で”ゼロ戦”を造っていたという証言は彗星や紫電との混同と思われるし、工廠内で水上偵察機”瑞雲”が落ちたと証言されている方の話は、実際この時落ちたのは 当時最高機密だった潜水空母伊四〇〇型の艦載機”晴嵐”だと思われるのだが、なにしろ軍事機密なので似たような機体でごまかされたのだろう。 

 幼いすずとリンとの触れ合いが描かれる「大潮の頃」は、全編が筆で描かれている。 つまりこの話自体が、晩年のすずが、おそらくは「呉の戦災を記録する会」が終戦50周年を機に募集した市民の戦災体験談のために、あるいは、孫やひ孫に戦前の話を聞かれて語ったものではないか? だから、ところどころ記憶があいまいで、9年8月の記憶と混同しているのだ。(だから、当時は生まれているはずの千鶴子も出て来ないのだ) 

 最後に、少しファンタジー的な仮説。 10年8月というのは正しく、座敷童子を見たのは すずの夢だった、あるいは すずの想像力の賜物だという説。 すずには場所やモノに刻まれた記憶を敏感に感じ取る力があり、それを類い稀な想像力で実際に起こったことのように具体化できるのだ。 前年の夏におばあちゃんに情けをかけてもらった時のリンの強烈な記憶が草津の家に刻み込まれており、すずはそれを本当に体験したことのように感じ取ってしまったのだ。 先にも書いたが、みぎてにはこの力が継承されており、街中の人々の記憶を感じ取って描きまくっているのだ。

 いずれにせよ、このリンのエピソードは読み手の想像力をたくましくさせ、この物語を単なるノンフィクションものとは一線を画す作品に昇華させることに成功している。

音戸ニテ待ツ

 もう一つ道端に落ちている紙切れ。 音戸にて待つという、ごく普通の安否を知らせる貼り紙のようだが… そういえば、この次の回で すずは音戸に出向き、その帰途、ある重要人物と再会している。 これは予告? それとも隠されたメッセージ?

生き別れた子と亡き子を並列に語れる母

 進駐軍にチョコをねだる子供たちを見て、遠く下関にいる久夫に思いを馳せる径子。 そして晴美のことにも思いを寄せる。 未だに寂しさは残るが、だいぶ落ち着いて晴美のことを考えられるようになっている。 やはり、何か精神的なけじめをしてきたのだろうか。

 なお、劇場版では進駐軍のジープ資料を大物アニメーターの大塚康生氏が提供している。 そのためか、この闇市のシーンで、進駐軍のジープを熱心にスケッチする大塚少年らしき人物が映っている。(画面右端)

飛び去ってゆく楠公

 残飯雑炊のうまさに思わず、USAならぬ”uma~”と叫んじゃう二人。 そして飛び去ってゆく楠公。 まるで第39回のパロディのようだが、楠公もまた、この国の正義の象徴なのだ。 惨めな倹約飯の象徴としてだけではない。 大東亜共栄圏の理想のために、その身を喜んで差し出す臣民たれと教えた皇国史観の象徴でもあるのだ。 わが国は米国の物量作戦の前に、物質的にも精神的にも完敗したのだ。 日本人は一度、完敗を経験したからこそ、今日のように再び這い上がれることが出来たんだと思う。 

径子の説教がガミガミでないわけ

 残飯雑炊だと家族におすそ分けが出来ないと気をもむ径子に進駐軍から貰ったチョコを差し出す すず。 すずの軽率な行動に対し、またまた くどくどと説教をする径子。 そういえば、径子の説教は一貫して”くどくど”であって、”ガミガミ”ではない。 しつこいけど、一応筋は通っているということか。 径子の説教(おかあさんゆずりだが)は、連載当初はキツイ小姑のものだったが、今の径子のそれは 実の姉が末妹をおもうものに、母が子をおもうものに変わってきている。

あなたを抱くチョコの宵闇

 径子の説教につられ、海苔の宵闇ならぬチョコの宵闇でエンディング。 ご丁寧にKUDOKUDOマークになっている。 森永製菓さん、ぜひこのチョコをコラボ商品のラインナップに。

いい米兵さん、悪い米兵さん

 進駐軍の中には”いい米兵さん”と”悪い米兵さん”がいた。 悪い米兵さんは下級兵士に多かったようで、公共機関の備品類を勝手にお土産に持って帰ったり、強盗まがいの大暴れを繰り広げたものも多くいた。 新聞の見出しでは、このような輩は”大男”として呼んでいた。

 いい米兵さんは上級の士官に多く、彼らは身の回りの世話をしてくれる子供たちに、「宿舎の中にある食べ物は、いつでも好きなだけ持って帰ってよい」といい、勉強を望む子には積極的に英語を教えてくれたそうだ。 彼らと呉市民との交流は、彼らの帰国後も続いたという。



11月6日、GHQより財閥解体指令が出される。 戦前の日本の貧富の差を増大させていた要因が取り除かれたわけだが、現在の日本においては財閥は”ケイレツ”という名で生き残っている。

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